2017.08.08

「チュンチュン・マラー」のわけ

ベナレスの鹿野苑で最初の法が説かれてから、様々な場所、様々なときに法は説かれ継がれ。その法を曲解したり、都合よく用いたりせず、釈尊のことば通りに伝えることにチベット僧は文字通り心血を注いできました。

「私は建物に興味はない」「もっと欲する人々の場所に出かけて活動しなさい」

ダライ・ラマ法王はそうアボさんたちに語りかけました。こんなお堂はどうでしょうと尋ねた時です。

活動が多岐に、物理的にも広範になると、チベット僧もボランティアスタッフも人数の少ない現状では負担も大きくなるため、細く長い活動にポイントを切り替えるべきだと話していた矢先のことでした。

活動するにあたって、法を説くお方がおられ、それを担いでおられるのがアボさんです。アボさんの足先は非常に慎重で、正確で、反復をいとわず、荷の重い軽いをおっしゃいません。時々、その足を貸せと言われ、やめておきなさいと言われても、勇み足であってもルビコンを渡るのにも足を貸すのがアボさんです。

ガタンゴトンと座が崩れ、リンポチェが「おい、おいどうしてそんなことをした」とおっしゃるまでは

「チュンチュン マラー」(いちいち)小さいことを言うなと、チベット僧はよく言います。花畑が好きで、わずか30分のお茶の時間を冗談の応酬で楽しむ彼らですが、注意することに関しては意欲的ではありません。これは、長くて濃密な僧院生活を送るために息づいているものかもしれませんし、因果応報を理解し尽くしているからかもしれません。意見を求められれば別ですが、それでなければ、ここぞと言う時を彼らは知っているのです。母性を日常に想い、父性に座し、闊達に笑う大陸の人なのです。

他方彼らは非常に議論好きで、ディベートをこよなく愛し、巧みに弁論し、文殊の剣で煩悩をDenyしているのです。

民族が違うのですから、日本に滞在するだけでご負担はおありのはずです。チベットでは当たり前の日常がここにはないのです。できうることは、日常を愉しむ側が、日本の道理を押し付けずチベットに寄り添うことであるのかなと思いつつ愚行をおかす真夏です。

今月の法話会は酷暑のため、広島では庫裡のクーラーのあるところで、東京はゴマンハウスで行う予定です。
「四聖諦」をディベート形式のテキストで説いていただきます。

追伸
8、9月は夕方のお経を18:00から始めています。カレンダーをご確認くださいまして、どうぞ日が傾いてからお出かけくださいませ。


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