作成日: 2010-03-27 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

【E1 上士道次第修心】

このように輪廻の欠点を様々な側面から長く修習することから、一切の有は燃え盛る穴のようなものであると見える。煩悩や苦が寂滅した解脱を獲得したいと思い、そのことで心苦しくなるのである。〔解脱への〕道たる〔戒・定・慧の〕三学処を学べば輪廻から解脱できるし、それはまた上界の栄華のように再び滅してしまうものなのではないことは確かである。しかしながら、それは過失を尽して功徳を得たことも部分的に過ぎないのであり、〔断・証の〕自利を円満にしているわけではないので、利他も些細なものに過ぎなくなり、最終的は〔声聞・独覚の阿羅漢果に達したとしても〕仏に請われ大乗{¥small (菩薩乗)}へと入る必要がある。それゆえに智慧有る者たちは、最初から大乗へと入ることが正しい。『波羅蜜多要集』では、

世間の利益を成就させる方便には無力である両方の乗を完全に放棄し、牟尼勝者の乗、慈悲によって説かれたもの、そこへ利他を一味とする性質の者たちは入ってゆく。Cf. Paramitasamasa, VI. 65. Saito ed. .

と説かれている。

〔上士という〕ここで諸々の士の安楽・威光・人格的能力とは、利他という責務を負っていることであるとするのが妥当である。何故ならば、自利のみを目的とすることは畜生にも共通しているからである。しかるに、上士たちの心情は、他者を利楽するというまさにこれに帰している。『弟子に与える書状』では、

入手しやすい干し草は家畜も自分も食べるが、咽の渇きを促進させて苦しむので、水が手に入れば喜んで飲むだろう。ここでは利他を為すことに励む人であることは、それがこの威光であり、楽であり、その能力は絶大である。しかし、太陽は広大なる馬の波に乗って、総てのものへ光明を与え、重荷にさえ感じずに世間を支えているのと同様に、それは自らのためなのではない。偉大なる者たちの性質とはそのようなものであり、彼らは世間を利楽するというこの一味に帰している。¥footnote{k.102. TD4183, 52a7-b1}

と説かれるのである。

このように衆生が苦によって煩悶していると見て、それを利益することに忙しくするものを指して「士」と言うのであり、「賢者」とも彼は呼ばれる。『同書』では、

世間に無明の暗雲が翳ることで衆生は混乱し、苦しみの焔が燃え盛る家のなかに力なく落ちている。それを見て、あたかも〔その火が〕頭に飛び火して燃えるかの如く、心忙しく精進するもの、そのような彼らはここで士であり賢者とは彼らのことなのである¥footnote{k.102. TD4183, 52a7-b1}

と説かれるのである。

それゆえに、自他の一切の善の源であり、一切の衰退を取り除く薬であり、賢者の士すべてが赴く大道であり、それを見聞き想い触れることだけでも衆生の保養となるものであり、利他を専らにすることで、自利をも余すことなく間接的に成就することになる、偉大なる善巧方便を具えたもの、そのような大乗へと入ることができるということは、何と素晴らしいこと、私の見出したもの(大乗)は、何とも善いものを見出したものだと、能力のある限り、この最高なる乗へと入るべきである。

しかるに上士の道次第を修心することには、三つ。F1大乗の門は発心のみであることを示すF2その心はどのように起こされるのかF3発心の後にどのように行を修めるのか