N3  〔精進波羅蜜を〕心相続にどのように起こすのか


作成日: 2010-03-27 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

精進の発動の功徳とは次のようなものである。『大乗荘厳経論』では次のように説かれている。

善資のなかでも精進とは最勝のものである
これに基づきその後のすべてのものを得られる
精進によって直ちに最勝の楽住を得るのである
精進によって有の受容したいものを得るのである
精進によって清浄なるものを具足することになる
精進によって有身見を超越して解脱する
精進によって最勝菩提を現等覚するのである

また『波羅蜜集』にも

少しも悲しむこともない偉大なる精進を有するのならば
得られないものや成し遂げられないものは何もないのである

人以外のすべてのものがそれを利することを喜び
あらゆる種類の禅定を得ることとなるだろう
昼も夜も実り多く過ごせることとなり
功徳の積み重ね退化することもなくなる
人の法よりも勝れた意義により
青い優曇華の如く咲きみだれるだろう

と説かれているが、このように考えなければならない。

精進の発動そのものに対する逆縁には二つがある。すなわち善法を成就できると思いながらもそれに従事しないこと・私はそのようなことを一体どうして成就できようか、と萎縮してしまうこととである。前者にもまた二つあり、いまはまだ時間的余裕が有ると思い後回しにすること・そうしなくても悪行に執着してそれに圧倒されていることとである。

前者にもまた二つあり、いまはまだ時間的余裕が有ると思い後回しにすること・そうしなくても悪行に執着してそれに圧倒されていることとである。

前者の対治としてはいま得ている身体は忽然と滅すること、死後悪趣に堕ちてしまうこと、再びこの良き所依を得ることが難しいというこの三つを修習することというこの三つを修習することであり、それについたは先に解説した。

執着の対治についてであるが、正法というものは今後無辺の歓びを生じるの原因であること、無意味な無駄話をしたり興奮してまうことなどの散乱は、ここ(有暇具足のこの所依)における偉大なる意義を損なわせるものであり、後に多くの苦を引き起こすものである、と考えてそれらをやめることである。

萎縮についても三つがある。すなわち、得ようとしている仏の功徳は無辺であるからそれを自らが得ることは不可能であると思うこと、方便たる足や手を与えるといった為しがたいことは考えられぬほどあるので、それを自らが成就することは不可能であると思うこと、それを為すべき場所である輪廻に無数に生を受けなければならないがその時には輪廻の苦しみで害されるだろうと思い、このようなことによって萎縮してしまうのである。

第一の場合に対する対治としては、過去に諸仏たちでさえもまた最初から高い道位を得ていたのではないのであって、自分と同じようなものに過ぎなかった時から次第に高位な道を上ってゆかれて仏になったのであり、世尊もまた自分よりもはるかに劣ったものでさえも成仏するであろうと説かれているのであるから、自分もまた精進を捨てなければ、それらを獲得できないことがどうしてあるだろうか。このように考えることである。

第二の場合に対する対治としては、身体などを施すこともまた、為しがたい行いであるという想念が起こっている限りの間は施すこともないが、施しをする際には、野菜などを施すのと同様に困難ではないと思うことである。

第三の場合の対治としては、菩薩は罪障を断じているので、その果たる苦受が起こることはなく、輪廻は無自性にして幻の如きものであるという理解が確実なものであることによって、心に苦しみは無く、また心身は安楽で増長しているので、輪廻に留まっても苦しく無意味だと思い萎縮してしまうことが止めるのである。

精進の発動の順縁によることには、四つがある。

信解することの力とは、業果を修習して〔善業と悪業とを〕取捨選択することに意欲を起こすことである。

堅固なることの力とは、検討することなく如何なる行為であれそれをやってみるのではなく、検討した後に行為へと従事するのであれば、その行為を完逐することである。

歓喜することの力とは、子どもが遊びに従事しているかのように、それに勇ことが途絶えることなく、飽きることもなく、精進をするということである。

休息することの力とは、精進しはじめることで心身が疲弊した時には、休息をとり、再開するときには間を置くことなく再開することである。

以上のように逆縁を退けて順縁に依ることによって、心身を起こしても軽々とあたかも綿の花が風で飛んでいくようになるようになるまで精進を発動させるのである。

精進を学ぶ時に六波羅蜜を具足すべきことについては、自らが精進を継続し他者をそこへと向かわしめることが精進の布施であり、それ以外のものは先ほどと同様である。