2016.09.28

三義心髄観想次第・兜率往生の梯子

B2 臨死の行たる転移の解説

B2臨死の行たる転移の解説については偈頌に

自らの体を供施することで
すべての期待を完全に断じる
光明の管を結合させて
心を兜率処へと投じる

と説かれる。この意味を実践するために、 C1 転移成就の逆縁排除・C2順縁の成就 C3転移観そのものという三つがある。

C1 転移成就の逆縁排除

今世の処・身体・享受物を貪着していれば、鳥が空を飛ぶ時に翼に石を付けられている如く、いくら兜率天等に転移したいと思っても、思い通りに転移するためには、その逆縁となるので、その対治として、身体に対する貪着を滅するため、まずは幻身を善資として供養することが一行目で説かれている。

資糧の福田の顕在化として、眼前の空間に八獅子で支えられた広大な玉座の上にある、蓮華と月輪の座の上に、至尊観世音の形相をした、恩ある根本師を先程修習したのと同様に居らっしゃると修習する。

その頭の前方には根本次第相承の師資たち、上半身の前方には四部タントラと関連する本尊と各曼荼羅の諸尊たる一切の仏と菩薩たち、下半身の前方には、恩ある父母を先頭に六種の一切の有情たちが隙間なく居ると信解する。つまりこれらの客人たちが大地と空間のそのすべてを胡麻粒で充満しているように観想する。
次に、資糧の積集作法として次のように思う。

幾度となく私はこの輪廻で有情一般の身体を無数に得てきた。特にこの人身も無数に得てきたのである。しかし、そのすべては意味もなく浪費してしまったのに過ぎないのであり、意味のある活用をしたことなど一度たりともこれまでなかったのである。この度のこの古びた身体を得てからも、清浄な利法の一つも成せたことなど無かったのである。この身を維持するための手段として様々な罪業を為してきてしまった。いま死に行くこの身は、誰もいない放牧地のように後に残されるだけであり、これのために積んできたこれらの罪業で来世は悪趣の耐え難き苦しみが起こることになるのである。それ故に、この身体は執着すべきものでは無く、これに依拠して広大な資糧を簡単に成し遂げなければならない。そしてそれもまた本尊大悲観音に請願しなくてはならない。以上のように思うのである。

自らの心性は、心臓部で親指大に凝縮した観音の尊身より、外側に分離して出ていき、眼前の空間に住することで、過去の古い蘊を振り返れば、白く、栄養価に満ち、美しく、心地よく、艶よく輝いているものとして存在していると思う。眼前の観音の形相をした師に対し、「師、本尊観音よ、私のこの身体に依拠し広大な資糧を簡単に成し遂げさせ給え」そう請願するのである。

すると彼の御口から「オーム・アーハ・フーム」と説かれ、それによって須弥山ほどの人の頭蓋骨の鼎が現れ、その後に本尊の胸元よりカルティカを持つダーキニーたちが出現し、それが自分の眉間の上の頭蓋骨をカルティカで真っ二つに割り裂いて血飛沫で覆われ三千大千世界よりも広大であると思う。更にカルティカを持つダーキニーたちが多く出現し、古い身体の肉・血・骨を順に刻んで髑髏杯へと入れ、髑髏杯は血と肉で満杯となるのである。

もう一度本尊の口から「オーム・アーハ・フーム」と説かれることで、このすべての血と肉は、日昇直後の太陽の色のように橙色をした無漏の智慧の甘露と成り、善い香りを嗅ぐことで勝者と勝子たちの御心もまた楽によって満たされ、六道の苦しみを取り除くことができる者と成るのである。このように信解する。

その次に、自らの心臓部よりカルティカを持つダーキニーが天界を満たすほど出現し、彼女たちが手にする髑髏杯で、甘露が尽きることを知らないかのように掬いあげて、根本師資相承の師・本尊・仏・菩薩・声聞・独覚・空行母・護法尊たちに甘露を献上し、彼らの御心は、無漏の大楽で満たされて歓喜なされるということで、資糧を簡単に成し遂げた、と思う。

同様に危害を与えたことの報復をしようとする復讐者たちにも与えることで、彼らの復讐心はなくなり、貸借は清算され、恨みは晴れ、彼らすべてもまた観音となる。

その後に恩ある父母を先頭とする六道の一切有情に与えることで、そのすべてもまた、六道それぞれの苦とその因たる一切の業と煩悩が浄化され清浄なものとなり、先ほどと同じように器世間のすべては極楽浄土の如きものだけになり、そこに住する一切有情もまた観音と成るのである。このように観想し、六字念誦等も先ほどと同様にすべきである。
最後には、器〔世間の〕一切は光に溶解し、そこに住む有情たちも自己に溶解し、眼前の空間に居られる根本師・相承の師をはじめ空行母や護法尊にいたるまでの眷属たちも自己を加持という形で自己に溶解する。最後に、自己はまた認識できないもの(無所縁)であると思い、供養対象・供物・供養を行う人・供養の作法などすべては、本性によって成立しているものが微塵ほどもない、空性であると観想し、三輪無縁の証解を智慧で発展させる。

このようにすることで身体に対する貪着と離れるのであるが、更に親しき友や金品、財産などのと離れてはいないと思われるのならば、それらを滅する方法が二行目で〔「すべての期待を完全に」と〕説かれているのである。これもまた、今世の親戚や友人などが幾ら多くとも、前世の業によって、木の葉が風で落とされるように一時的に集っているに過ぎず、最期を迎える時には、彼らもまた私を捨て、私もまた彼らを捨て、死にゆく時には、親しき親族や友人は一人としてそれ(死)を共にする権限に値する者などいないし、自分一人だけで逝かなれければならない。

このように思い、彼らに対して執着しないようにするべきである。金品・財産などもまた死にゆく時に遺していかなければならず、私自身はバターの中から毛を抜き取るように逝かなれければならない、というこの状態を理解することで、執着することなく、三宝に供養したり、僧衆たちに奉納するといった、有効活用となる善なる方面へ与えてしまい、いかなる執着であってもそれは無くすべきなのである。

C2 順縁の成就

転移を成就するための順縁として、兜率天に生まれようという強い意志を修し、そこに生まれた位という祈願を立てる。諸々の善根もその因へと廻向する。

C3 転移観そのもの

C3転移観そのものは後半二行で〔「光明の管を結合させて、心を兜率処へと投じる」と〕説かれる。

「兜率内院法宮」と呼ばれる宝石の輪で取り囲まれたものの中心に「高宮」「勝幢高宮」と呼ばれる至尊弥勒が居られる宝石の完全な宮殿はある。その前に「妙楽持法」と呼ばれる至尊〔弥勒〕が説法される法苑がある。それは宝石を自性として、広大にして、歓喜を尽くしている。その中心の獅子の善法の玉座の上に、勝者アジタ〔弥勒〕御自身が居らっしゃる。その御身は黄金の胎児の如く金色に輝き、十万の太陽に比する光明を有している。各自の閻浮提の側に御顔を向けて居られ、眷属たる無数の菩薩たちに般若波羅蜜多の規矩や教義を妙暢に教示なさって居らっしゃる。これを私も現量として見ていると信解し、一心に強く思慕し「大悲勝者アジタよ、私を輪廻と悪趣の畏れから救い、兜率国土へと直ちに引導し給え、速やかに引導し給え、この場で引導し給え」こう請願するのである。

それにより至尊〔弥勒〕の胸元より光明の管が袖を伸ばしたように細く出現し、自己の頭頂の梵座は天窓を開けたように喇叭状に開き、自己の心臓部にある親指大に凝縮した観音尊身によって自己の天窓を開けたような梵座から光管の道で、見上げると、至尊の胸元が、よく磨かれた黄金のマンダラに日光が当たっているように金色に光り輝いて現量で見えていると信解する。ここでその光の管を道であると想い、自分自身がその道を往くと想い、至尊の胸元に至り転移すると想う、と言う三つの想いを為し、再度強い意思で先程同様に請願する。

このことにより、至尊〔弥勒〕の胸元から鈎状の光は、光の管を往来しながら出現する。自分の梵座を通じて入ってきて、観音菩薩として顕現している自己の心性を照射する。そのことにより、鈎で引き上げられるように、〔自己の心性は〕上方へと向き、梵座から外へと出て、光の管の道を通って、流星が降り注ぐように何にも妨げられずに上昇し、至尊〔弥勒〕の胸元に溶解して消滅する。このことによって至尊〔弥勒〕の御心と自分の心とが一味に溶解したと思い。そのままの心持ちで暫し置く。

そこから再び、心臓部より出て、至尊〔弥勒〕の説法法苑で、千の花弁を有する蓮華の中心に、分析力と智慧が最勝なる天子にして、大乗の法を恣欲に享受する劫を持つ者として生を受け、至尊〔弥勒〕の御言葉の甘露を開くことなく飲むことができると信解するのである。

B3 中有の行たる混合の解説

中有の修行の心髄である混合とは本頌で

これ自体は中有であると知り
外・内・秘に変化を起こし
空性と悲の修習をすることで
賢者は結生するべきである

と説かれている。一行目では中有においてそれが中有であると認知する方法を示しているが、その次第は、現在のこのすべての対象顕現に対して、これら一切は中有の迷乱顕現であるので、中有にてそれが中有であることを認知せねばならない、と何度も修習することで、これから先、中有に生まれた時、「いま私は中有に生まれている、このすべての現れは中有の現れとして有る」と中有を中有であると認知できるようになるのであり、夢を見ている時も、昼間の記憶を継続させて見ているのと同様なのである。

二行目は中有の実践そのものを説いている。外的変化とは、これから外側の器世間たる大地や石や樹木などを本質とするこれらのものが現れる時、これらは私自身が中有にいる迷乱の顕現なのであって、事実としてはこのように成立しているものは無い、と思い、それらの不浄なる顕現に意識が付き従うことなく、それらは清浄なる極楽浄土のようなものだけへと変化させる、と修習する。同様に内的変化とは、内側の住世間たる人・畜生などの様々な者が顕現している時、それらは観音菩薩の本尊の身体へと変化させる、と修習するのである。秘密変化とは、そのような器世間・住世間の両者がまたそれ自体で成立しているかのように顕現している時に、このような顕現は、自分の心が真実把握とその習気によって汚染されていることによって、そのように顕現しているだけであり、それ以外に顕現している通りにそれ自体で成立しているものは微塵ほども無い、と修習するのである。このような修習をなすことによって、中有に生まれている時に、地獄処・閻魔世界などの不浄な器の顕現が起こっている時、それらは極楽浄土のような者であり、剣を持った殺戮者などに自分が殺され等の住世間の諸々の顕現する者は観音の御身であり、そのすべてはまた顕現している通りに本性によって成立している者について空であると心に思い描くことができるようになるのである。

後半二行は思い通りに有に生を受ける受け方が示されている。それは次のようなことである。自分は法を成就する有暇具足を全うする清浄なる身体に生を受ける時、自分が中有に住して、父母が交合するのが見える時、雄に生まれることになる場合には、父を対象とする瞋恚、母を対象とする貪欲の心が起こっている時に、瞋りが生じる対象であるその父は、無始以来いかに恩の有る者であるのかということを考えて、それらを対象とする強力な悲心を修習し、その瞋恚を退けるのであり、貪欲の対象であるその母が顕現しているけれども、それは顕現している通りに、それ自身の側から成立しているものについては空であると修習して、その貪欲を退ける。その後で私はこの母の胎内に生を受け、残りの道を実践し、有情の利益を広大に成就したいという動機をもち生を受けるのである。

B4 補足的な見・修・行の要点の説示

補足として、見・修・行の要点の提示は、

如何なる現れであれ認知することが見解の要点である
そこから揺らぐことがないことが修習の要点である
思い起こして等しく集中することが行の要点である
これこそが偉大なる悉地を得た者の教誡なのである

と説かれている。

如何なる現れであり、それ自身の側から成立しているかのように現れているこれを認知する時に顕現している通りに成立していないと確定することが見解の要点であり、確定したその意味を一心に揺らぐことなく修習することが修習の要点なのであり、輪廻・涅槃の一切法が本性空であると一味に想起する気持ちから利他のために勝子行を学ぶことが行の要点である、ということが意味されおり、「偉大なる悉地を得た者の教誡」とは以上説明したことが至尊ミトラの教誡であると示しており、このシュローカは至尊ミトラのものではないのは明らかである。

以上、『三義心髄』と呼ばれる諸々の実践次第を極めてわかりやすく実践しやすく説明し終えた。

白蓮を持つ心の湖より
善く出てきた甚深道という真珠
それが連なり編まれて提示したこれは
賢劫の吉祥女たちの首飾りである
ここに励むことで起こる純白の祥善により
一切衆生が悪趣の崖より救われんことを
兜率の摩尼殿が歓喜に満ち溢れ
勝乗という甘露の栄華を享受せんことを

以上のこの三義心髄の分かりやすい指南書は、教法と教法を護持する者に不断の最勝なる信心を有しており、施しの長い手を差し伸べ、貧しき衆生たちを息吹かせていらっしゃる生類の偉大なる女王たるパルデン・イェーシェー・チュードゥンの甚深なる御心を発展させるために、法を語る僧たるゲンドゥン・ギャツォ様がウルカ・タクツェルの宮殿にて著したものであり、筆記者はサンゲー・ゴンポと名乗る者が為した。

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