作成日: 2016-09-25 最終更新日: 2016-09-25 作成:野村 正次郎

【G3 菩薩の所学を如何に学ぶのかの次第】

G3には二つ。H1大乗全般の学習次第、H2特に金剛乗の学習次第。

H1 大乗全般の学習次第

 
H1には三つ、I1菩薩の所学を学びたいという意欲を培う、I2それを培い勝子の律儀を授かる、I3それを授かった後にどのように学習するか。

I1 菩薩の所学を学びたいという意欲を培う

律と真言の二つでは、最初に各々の律儀を授かる時は、それ以前には所学を聴聞してはならないが、これはそれらとは異なっている。〔菩薩戒は〕前もって所学を理解し、心相続を浄化した後に、その後で〔それらの所学を〕守りたいのであれば、〔菩薩の〕律儀を授けることになる。したがって、所学を理解して、心の向かう対象として、それらを心の底から身につけたいという気持ちを培って律儀を受けるのならば、極めて堅固なものとなるので、これが良き方法なのである。

I2 それを培い勝子の律儀を授かる

『菩薩戒品』の注釈において、まずはどのように授けるのかということと、その直後にどのようにして根本堕罪と波羅夷罪とを戒めるのか、もしも違犯を犯したときにどのようにしたら復興するのかということについて既に詳しく確定しているので、戒律を授かる前に、それを必ず参照し、それで理解されたい。

I3 菩薩戒を授かった後にどのように学ぶのか

I3には三つ、すなわちJ1所学の基盤がどこにあるのか、J2そこに諸々の所学がどのようにまとめることができるのか、J3それらをどのように学ぶのかの次第。

J1 所学の基盤がどこにあるのか

〔菩薩の所学には〕様々な分類が無数にあるけれども、その種を集約すれば、六波羅蜜に菩薩の一切の所学は集約されるので、六波羅蜜は一切の菩薩道の枢要を集積している偉大なる教えである。

J2 そこに諸々の所学がどのようにまとめることができるのか

世尊は、六波羅蜜の概略のみを説示しになられたのだが、法王子弥勒はそのように説かれた理由のポイントを、釈尊の密意の通りに注釈なされ、決定知を起こし、それがこれに関する定数の確定なのであるので、それら〔六波羅蜜の各々〕に対して心を動かされるような確定を得るならば、六波羅蜜の実践を教誡の最勝であると把握することである。

これには六つあり、K1すなわち増上生の観点による定数の確定、K2二利の実現の観点による定数の確定、K3一切の利他を円満に成就する観点による定数の確定、K4一切の大乗がここに含まれることの観点による定数の確定、K5道もしくは方便の一切の種類の観点による定数の確定、K6三学の観点による定数の確定、である。

K1 増上生の観点による定数の確定

菩薩の大波行を究竟するためには、〔二資糧を積むために〕数多くの世を経なければならないが、さらに〔菩薩〕道の階梯を踏むためには、〔有暇具足などの〕すべての条件を兼ね備えた所依をもつのではなく、このたびの所依ではこうこうした部分のみ有るということでは、何らの効果も実現することができないので、すべての部分を具足した所依が必要となる。

そしてそれもまた、そこにおいて〔布施の結果としての飲食などの〕受容するその受容、〔持戒の結果として五体満足で夭折しない病気になりにくい〕受容の主体となる身体、〔忍辱の結果としての〕共に受容することになる周囲の者、〔精進の結果として〕何らかの業を開始したものを成就できるということ、という四つのものを円満に具足していなければならないのである。そして単にそれらを円満にしているだけでは、煩悩に支配されてしまうことも多いので、その上で更に煩悩の力に翻弄されないことが必要となり、さらにこれだけでも不充分で、取捨選択するべき要に対する不転倒な進退を正しく区別することが必要となるのである。何故ならば、竹や芭蕉が自らの果実ができるときには枯れてしまうことやメスのラバが妊娠すると死んでしまうのと同様に、それらを円満することそれ自体によって破滅してしまうからである。

智慧を有するのならば、過去の善業の結果であると理解して、再び〔善〕因へと励みそれを増進することになる。智慧がなければ過去に積んだ業果を受容することによってそれを消耗して、新たに増進させることはないので、後世における苦しみのはじまりとなのである。したがって他の世において、これら〔波羅蜜〕の六つのが生じることも、無因や不相応因より生じることはなく、相応因もまた順次六波羅蜜であることは確実である。道の階位における受容等は、暫時的な増上生であるが、円満なる身体等は究竟の増上生であり、これは仏地にのみ有る。

すなわち『大乗荘厳経論』では、次のように説かれている。

受容と身体が円満なること 周囲の者や仕事が円満なるという増上生¥¥
常に煩悩の支配下へと赴かぬ不転倒なる行動とである。

K2 二利の実現の観点による定数の確定

このようにこうした〔すべてを具足した〕所依によって菩薩行を学ぶときには、菩薩がなすべきことは二つしかない。それは自利と利他の成就である。

利他の成就のためにはまずは財施(1)財施・法施・無畏施}によって利益することが必要である (布施波羅蜜)が、その際にも有情に危害を加えることを伴うような布施を行っても何もならないので、他者に対して危害を加えることをその所依から正しく退くことそれ自体が、大いなる利他であるので、戒が必要である。(不殺生/不偸盗/不邪婬/不妄語などの根本の四戒をはじめとする戒)そしてこれを究竟するためには、危害を与えられたことを忍耐せずに、一度や二度と復讐をするのならば清浄なる戒がもたらされることはないので、こちら側に危害が与えられたことについては何も思わずに、忍耐することが必要である。これは仕返しをしないことによって、他者が罪業が犯そうとする多くの行動を阻止し、それによって意欲的に善〔業〕へと振り向けることから大いなる利他なのである。

これに対して自利とは、〔無我を理解する〕智慧(般若波羅蜜)の力によって〔無明を断じた輪廻からの〕解脱の楽を得ることであり、その限りまた心が散乱しそうにならないことによって禅定(禅定波羅蜜)で心を等しく保ち、所縁に対して思いの向くまま心を留めることのできる活動能力が必要である。

そしてこれは怠惰な者には起こらないので、昼夜如何なるときも飽くなく精進を発動していることが必要となるので、これはそれらの基盤となるものなのである。

以上のことから、二利を成就するために必要なものは、六波羅蜜であることが確定している。

有情を利益すること、正しく精進し、布施と不害を疎まず忍耐し、安定と解脱を基とした一切の自利をも受容することになるのである。

ここでは一切のありとあらゆる利他が含まれているわけではない。また「安定と解脱」とは、心が所縁に安定していることは禅定〔波羅蜜〕の軌跡であり、輪廻より解脱することは智慧〔波羅蜜〕の軌跡であると説かれているこれは二つを区別すれば、奢摩他を毘婆沙那と間違え ないのである。

K3 一切の利他を円満に成就する観点による定数の確定

 まずは財施によって彼らの貧困を取り除き、その後に、如何なる有情に対しても危害を加えることなく、しかもこちら側に危害が加えられた場合にも忍耐をなし、彼の友としてつきあうことをうとむことのない精進を始動させ、禅定に基づいて神通力などで彼らの望みをかなえて、〔心と体とが活動可能になり説法の〕器としてふさわしくなれば、智慧に基づいて正しく説くことで、疑念を断じ解脱させる。これらのためには六波羅蜜が必要となることは確定している。

彼らを貧困に陥らせないこと、害することなく、害を忍耐すること、なすべきことを疎まないこと¥¥
彼らを喜ばせ正しく法を説くこと、そのためなのであり、利他とは自利でもある。

と説かれているのである。

K4 一切の大乗がここに含まれることの観点による定数の確定

 すなわち、受容を得るためには、得たものに執着せずに得ていないものを追い求めるような受容を顧みるべきではない、それらが有れば、学処を戒めることができるようになるので、戒律を受て、それを大切にすることになる。有情と有情でないものによって起こる苦しみを耐える事に疎まないようになる。如何なる善のなすべきことに心を向けても疎む事も無く、止と観の無分別の瑜伽を六つを修習することによって衆生

K5道もしくは方便の一切の種類の観点による定数の確定
K6三学の観点による定数の確定、

注釈   [ + ]

1. 財施・法施・無畏施}によって利益することが必要である (布施波羅蜜)が、その際にも有情に危害を加えることを伴うような布施を行っても何もならないので、他者に対して危害を加えることをその所依から正しく退くことそれ自体が、大いなる利他であるので、戒が必要である。(不殺生/不偸盗/不邪婬/不妄語などの根本の四戒をはじめとする戒)