自他等換修習法和訳


Created: 2016-09-18 Last updated: 2017-04-17 Author:野村 正次郎

『自他等換修習法』bdag gzhan mnyam brje sgom tshul

一般にゲルク派の道次第(ラムリム)では、弥勒の『現観荘厳論』より伝わる「七因果口訣」(rgyu ‘bras man ngag bdun)と、シャーンティデーヴァより伝わる「自他等換」(bdag gzhan mnyam brje)との二つの発菩提心の仕方があると言われているが、本書はこの後者の発心の方法を説明する書である。本書の特徴として、前半で、我執との問答を通じて、自己と他者とが等価であることを詳しく述べていることがあげられる。本書は跋文でも述べられるように、一座の観想で修習される自他等換の方法を述べており、比較的容易な観想法であるので、ここに翻訳しておいた。テキストはショル版全集を使用し、読みやすい翻訳を心がけた。訳=ゲシェー・ロサン・チャンパ+野村正次郎

ナモーグルベー。自他等換の修習には二つが有る。平等の修習・交換の修習。

1. 平等の修習

【基本命題】自己には愛情を注ぐが、他者のことは見放す、というように、自己と他者とを一方は愛情を注ぐべきもので、他方はそうではない、とする不平等は正しくない。自分も一切有情も両方ともが、夢の中でさえも幸せを望んでいる点で等しく、苦しみを望んでいないことでも等しいからである。

我執は云う。「確かにそのような望みは等しいかも知れない。しかし、各自の幸せは各自で達成すべきものなのである。自己と他者とは相続が異なっているので、自己が一切の有情を利益しようとするのは無意味なのではないだろうか。」

相続が異なっていても、他者の害悪を取り除き、幸福を実現してやらなければならないのである。たとえば、母親と子供は、互いに相続が異なっているが、一方が目的とすることを他方が実現してやらなければならない。これと同様なのである。

我執は云う。「その場合には、両者はお互い愛しく思っているから可能なのである。しかし一切有情という他者に対してそのように働きかけても意味が無い。」

一切有情は、我々が過去に、無始時以来の輪廻で果てしなき無限の転生をした時に、計り知れない回数母親であった者たちなのである。今生の母親が我々を恩恵により守ってくれるのと同様に、彼らは我々をあらゆる利益へと導き、一切の危害から守り、自分たちの生命よりも愛しいものとして愛情を注いでくれたくれた者たちである。我々が飲んできた彼らの母乳は、海の水よりも多いのである。したがって、今生の母親に対するのと同じように愛情を注ぐ必要が有るのである。

我執は云う。「そのように〔自分の母親であったその〕時には愛情も注げるかも知れない。しかし今となってはお互いに顔も知らない。さらに、なかには我々に敵対して、我々のことを何とか害そうとしている者さえもいる。それ故、彼らを愛しく思いようがない。」

遥か彼方の無限の過去からの長い間に渡って、彼らは自分たちを愛しく守ってくれた、ということ考えずに、いまこのほんの僅かの間だけ、些細な好き嫌いということによって彼らに対して嫌悪感や怨みを抱くのは、愚劣極まる行いである。

たとえば、母親と子供とが生涯に渡りお互いに非常に愛し合っていても、お互いに年を取り、ある日、病気になり錯乱し、邪魔な存在であると勘違いするかも知れないだろう。そのような時に、嫌な言葉を言い合ったり、暴力を奮るったりすることもあるだろう。たとえこのような時であっても、子供は自分の親に対し、より一層の愛情を注がなければならないのである。そのような時に「今はもう、自分にとってどうやっても愛すべき存在ではない」と見放すのならば、「大事な時にちっとも役に立たない息子だ」「なんと恥知らずの人物だろう」と世の中のすべての人が思うだろう。これと同様なのである。

我執は云う。「では仮に愛情を注いだとしよう。しかし、この種の行為は他者に利益をもたらすのだろうか。そうではない。これは自分の方に苦労をもたらすに過ぎない。」

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