2016.07.17

仏教論理学が生きた伝統として存在しているということ

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チベット仏教の僧院には、ちいさな子どもの僧侶たちが沢山いる。彼らは日本ではまだ小学生程度の年齢で親元を離れて僧院のなかで生活をする。僧侶となった子どもたちは、実家に帰れば一番の上座に席が設けられ、釈尊の教えを護り実践する者として扱われるようになる。チベットの社会において僧侶であることそれ自体は尊いことである。

ちいさな子どもの僧侶たちは、親兄弟と生活をするのではなく、師匠と生活をする。在家の家族ではなく、僧侶としての新しい家族生活がはじまる。まずは師匠の身の回りのお世話、住んでいる場所の掃除や仏壇のお供えなど、いわゆる小坊主としての彼らはまずは基本的なことから学ぶ。

チベットの僧院では、通常経本をお勤めの際に持って行き見ながら読経することはあまりよいことではないと思われているので、僧侶たちは僧院の法要などで使われる経本を一通り暗記する。老僧たちが傍らで目が行き届く場所で、小坊主さんたちは経本を暗記するのである。

通常の在俗の子供たちならば、学校では喧嘩をしたり、いじめがあったり様々な問題がある。もちろん子供たちは喧嘩をしたりもする。しかしそれは普通の子供たちとは全然質が異なったものである。

ある時に小さなお坊さんに聞いたことがある。僧侶になってまず一番大切なことは何を学びましたか?と。ある僧侶はこう答えた。

お経のなかに「私もしくは私と同じようなものであると捉えるのであって、人によって人を捉えるべきではない。そのことによって失落する。」とお釈迦さまがおっしゃっているということですかね。これはどんなに腹がたつ相手がいたりしても、その相手はひょっとしたら菩薩であったり、仏さまの化身であったりするかもしれないんです。だから私たちはその人を自分の物差しではかって、ひどく言ったりしたらいけないらしいです。そもそも私たちが知りうる限りのものごとなんて、すべてのもののごく一部の側面しかないですからね。

正直いって小さな子供でもこんなことを考えられるのか。これはすごいなと私は感じた。これがチベット仏教の僧院の層の厚さといってもよい。

ここで小坊主さんが答えたものは通常ダルマキールティ(Dharmakīrti)の「非顕現非認識証因」(adṛśyānupalabdhi)と呼ばれるものである。「非顕現非認識証因」というのは、我々の認識には限界があり、私たちの知に現れることができないものが認識できないので、そのものはすべての場合には存在するという確定ができないということを表している。たとえば所謂お化けのようなものは、ある人にとっては顕現するものであるが、それを認識できない、つまり知に顕現できない知にとっては、お化けの存在は確定できないということを意味している。

ローカーヤタ学派(順世外道)は「解脱なんて存在しない」「一切智者などはいない」「前世や来世は存在しない」といっているが、それは彼らにとって顕現できないから存在するという確定がないのであって、一般的に非存在を確定しているのではなく、存在を確定する正しい認識は働かいていないということを意味している、という問題についてのひとつの考え方のひとつなのである。

我々外国人はダルマキールティの仏教論理学を学ぶ時に知るこの「非顕現非認識証因」というものが、子供たちが喧嘩をしたりお互いに憎み合ったりしてはならないということの絶対的な論拠として、通常の僧侶にも浸透しているということが、チベット仏教の伝統がいまも生きているということなのである。


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