Last Updated: 2020.03.21
HIROSHIMA INTERNATIONAL PEACE SUMMIT 2006

普遍的責任感とは何か

SESSION I - UNIVERSAL RESPONSIBILITY
ダライ・ラマ法王を囲むセッション
M02(11.1)01

基調講演:ダライ・ラマ法王テンジン・ギャツォ

まず二人のノーベル平和賞受賞者に崇敬の念を表したいと思います。

ご存知の通り、ツツ大主教は宗教家にして偉大な実践者であるのみでなく、平和と非暴力のためにその人生を捧げてきた方です。同じく、ベティ・ウィリアムズ氏もその生涯を平和のために捧げてこられた方です。彼女の場合には、特に未来の平和に視点を置いています。若い世代の人、子どもたちのために、彼女の人生は捧げられています。子どもたちをどのように育ててゆくのか、彼女はこのことを通じて、平和的な人間を育てようとしてきたのです。私はいつもこのお二人を心の底から尊敬申し上げております。ですから、私の務めとして、最初に私はこのお二人に崇敬の念を表したいと思います。

個人的には、お二人を「ようこそ」と歓迎したい気持ちです。私はアジアの一員だからです。1967年に最初に日本に来てから、何度もこの国を訪問し、日本には知人も多くおります。お二人に比べると、私はこの国に近い人間だといえるでしょう。もしみなさまのお許しを頂けるのならば、日本のみなさまに代わりまして、お二人に「ようこそ日本へ」と歓迎申し上げたいと思います。

このような偉大なお二方が来られたということは、大変に意義深いことです。なぜなら、ここが広島だからです。ここ広島は実際に核兵器を経験した土地です。ここから世界へと送られているメッセージは、“核兵器は脅威である”ということです。

広島と長崎に原子爆弾が投下されて以来、この二つの都市の人々はこのメッセージを世界に向けて発信し続けてきました。それは単なる言葉だけのものではありません。苦しみや痛みを直接経験したことによるものです。人類の課題として、遅かれ早かれ、このような破壊をもたらす兵器を地上から廃絶する必要があると私は真剣に考えています。既に多くのノーベル賞受賞者たちが、核兵器の全面撤廃のために、武器輸出の制限に向けて活動しております。

ですので、このお二人の偉大なノーベル平和賞受賞者をお招きし、こうした会議を行うことは極めて意義深いと思います。お二人に比べるのならば、私の働きはほんの少しのものにしか過ぎないと言えます。

グローバルな責任感とは何か

ではまずこのセッションのテーマ「グローバルな責任感」(sense of global responsibility)についてお話ししましょう。このテーマは数十年前から私が常々語っているものです。

今日私たちが直面している現実に照らして見れば、もはや国境というものは重要ではないと言えるでしょう。むしろ大切なことは、私たちがグローバルなレベルで人類そのものについて考えることです。

そもそも「グローバルな責任感」という言葉は何を意味するのでしょうか。

これは、「単に自分の家族、共同体、国家、大陸のことだけを気にかけるのではなく、人類すべてのことをいつも思い、関心を払うこと」を指しています。

これは法律によって強制的にもたらされるものではありません。いま私たちが直面しているこの現実を自覚することによって、自然と湧き上がって来る意識のことなのです。これが「普遍的責任感」の意味です。

世界が直面する新しい現実

では、何故そのような責任感を持たなければならないのでしょうか。

まずは私たち人類が社会的な生物であるということがその理由のひとつです。

私たち人類は数千年前から今日まで、共同体のなかで生活してきました。私たち一人ひとりは共同体の構成員であり、そこに依存して生活しています。ですから、いくら能力や権力に恵まれた人であっても、個人が幸福や人生における成功を達成するためには、必ず自らの属する共同体に依拠しなければならないということになります。また、自らの属する共同体が栄えているならば、そこに属する個人や家族はその恩恵を享受できますし、逆に共同体が苦境に陥っているならば、その構成員の一人ひとりの暮らしも苦難に満ちたものとなるでしょう。このように個人と共同体の両者は、相互に依存し合うという性質を持っています。

今日の世界情勢に目を向ければ、私たちは「新しい現実」(new reality)に直面していると言えるでしょう。それをもたらしたのは、まず第一に人口問題です。第二に、世界経済の問題があります。さらに環境問題もあります。これらはこれまでのように国家単位で解決できるといった問題ではなく、世界が一丸となって取り組まなければならない問題です。この“新たな現実”は、もはや国境という観念が過去のものでしかないことを示しているのです。

いま私たちはこのような「新しい現実」に直面しているにも関わらず、あまりにも強く旧来の考え方にしばられています。それは“私たち”と“彼ら”が別々であるという考え、つまり、自己と他者とを別個のものと見なす考え方です。私たちは他者を遠ざけ自分のことばかり気にしています。過去私たちは、他者のことを敵とさえ見做してきました。この考えによって起こるもの、それが“戦争”です。

戦争というものは、暴力の行使であり、暴力の合法化です。もしある者が数人の他者の命を奪ったならば、その人は殺人者や不法者と見なされるでしょう。彼は投獄され、場合によっては死刑に処せられることになります。ところが、もし彼が何千もの人々を殺したならばどうでしょうか。これまで私たちは、そんな人を時には英雄とさえ呼んできたのです。数千年の人類の歴史の中で最悪のもの、それが戦争です。

戦争というのは、人類だけのものではなく、動物たちにも戦争をするものもいます。たとえば、猿や蟻でも縄張り争いのために戦争をするそうです。しかし、私たち人類が起こしてきた“戦争”は、それらとは比べものにならないくらい破壊的で、そして悲惨なものです。しかも、その傾向は近代において一層顕著となりました。というのも、近代以降、人類は知性と科学技術を進歩させてきたからです。人類の起こす暴力的な行為は、知性と技術に裏付けされることで、驚くほど破壊的で悲惨なものとなってしまいます。そして、元を正せば、そのすべての悲劇が“私たち”と“彼ら”の間の線引きに由来するのです。

実際にいまこの「新しい現実」の観点から見れば、全世界が私たち自身の一部であると言えます。

以前であれば、アフリカの人はアフリカのことだけを考え、アジアの人はアジアのことだけを考えていればよかったでしょう。ヨーロッパの人は多少活動範囲が広かったとは言え、やはりヨーロッパの問題だけを考えていればよかったのです。

しかし、今日の我々が眼の前にしている「新しい現実」ではそうはいきません。先程も申し上げましたように、世界はグローバルな問題に満ち溢れています。経済活動にせよ、人口問題にせよ、問題は地球規模に及んでいます。このような状況の中、アジアの将来の発展は西洋諸国に依存しておりますし、アフリカなど他の大陸の発展はアジアに依存しています。

私たちは相互に関わり合い、依存し合っています。これが私たちが眼の前にしている現実です。したがって、“隣人を破壊すること”それは“自分自身を破壊すること”です。こうした新時代においては、自己と他者という観念自体が時代遅れなのです。私たちは“この世界全体が一つの家族である”と考える必要があります。ですから“新たな現実”においては普遍的責任感こそが、極めて今日的な意味を持つものなのです。

世界の現実を直視する

では、この普遍的責任感をどのように養ってゆけばよいのでしょうか。これは決して他人に強要されるものではなく、自発的に起こる感情でなくてはなりません。

まず第一の方法としては、私たちがいま直面している“新たな現実”を直視することが、みなさんを新しい態度へ向わせることになると思います。私たちは日常的には“自分”という観念に囚われています。しかし、時にはホリスティックな視点に立って全体を見まわしてみてはどうでしょう。そうすれば、みなさんが日常的に考えているものとは異なった現実を見いだすことができるはずです。

たとえば、今私たちがいるこの会場はとてもきれいに整えられていますし、喧騒もなく平穏で静かです。この会場のなかだけで考えれば「世界は幸福であり、平和である」と思えてくるかも知れません。しかし、それは間違っています。ラジオやテレビや新聞のニュースに耳を傾けてみてください。私たちが住んでいるこの同じ惑星の上に、私たちと同じ人類が暮らしています。その人たちは私たちと同じように苦しみや悲しみの感情を持っていますし、私たちと同じように人としての幸せな生活を送る権利を持っています。それにも関わらず、今も世界のどこかで問題が起こっているのです。もちろん自然災害もありますが、世界で起こっている問題の多くは、その地域の行政府や有力者達の失策、予想外の出来事などによって起こっているのです。そして、その結果、ダルフール紛争のような民族間の争いや飢餓というものが発生しているのです。これは本当にひどい状況です。本当に悲しい出来事が続いているのです。何の罪もない無力な人々、特に女性や子どもたちが最もつらい苦しみを味わっているのです。テレビを見ると心の痛むことばかりです。

さらによく考えてみますと、これらの惨事の影響は、実はみなさんの住んでいる地域にも及んでいることがわかります。たとえば、イラクにおける危機が原油高騰を招いたのです。このように、この現実世界で起こっていることはすべて相互に影響し、依存し合っています。ですから、もっとより広い視野に立って、私たちは地球全体のことを考えなければならないのです。それは私たち自分自身が最大限の利益を得るためでもあるのです。

やさしさから来る普遍的責任感

このように知識や知性によって新しい視点を養うことができますが、これとは別に、普遍的責任感の基盤ともいえるものがあります。それは“やさしさ”です。

もし眼の前で何者かが死にかけているのに関心を払わないで見過ごしてしまうのならば、それは人間のすることとはいえません。

たとえば象などの動物であっても、自分の属する共同体の一員が死にかけている時には、その周囲も苦しみを感じるのです。ましてや人間ならば、誰かが苦しんでいる時に無関心でいることが、一体どうしてできるのでしょうか。この感情は、愛や慈悲によってもたらされるものです。

このように知性的な側面だけでなく、感情的な側面から他者に対する関心と責任感を引き起こすことができます。この世界の全体像、特に環境問題などに関する知識に基づいて普遍的責任感を養う方法もありますが、同様に私たちが生まれながらにして持っている“やさしさ”をベースにそれを育てることもできるのです。

やさしさは母の愛情に由来する

いつもお話ししていることですが、今私たちが他人に対して抱いている愛や慈悲といった感情は、私たちがこの世に生まれた次の瞬間に学んだものです。生まれたばかりの小さな子どもは、動物と同じで、眼の前に母親がいたとしてもその人が誰なのか全く分かりませんし、そもそも“母”とは何であるかも知りません。おそらく赤ん坊は、“母”という概念を明確に理解することができないでしょう。ですが、心理学的にも生物学的にも、その赤ん坊は自然と母親に全面的に頼るようになるのです。その人が母親として私たちの面倒を見て、母乳を与えてくれる限り、私たちはとても安心感を抱き、幸福感を味わうのです。従いまして、他者の苦しみに同情するという私たち大人が持っている感情の種は、私たちが誕生した瞬間に母親によって蒔かれたものであると思います。これについて私は強い確信を持っています。

ですから、こういった他者への思いやりというものは、宗教的な教えに由来するのではなく、自然の本能によって身に付くものであり、また、生物学的な要因に基づくものではないかと思います。何故なら、私たちが生存するためには、生を受けた時点からして他人の手助けが不可欠であり、その他人の手助けなしには、私たちは死んでしまうからです。これは生物学的事実なのです。この事実があるからこそ、私たちの心には愛情が育まれるのであり、その愛情が母と子を結びつけるものにほかなりません。そして、これこそが新しい生命の基盤となります。つまり、私たちは子どもの時に母親から愛情や慈悲や“やさしさ”を享受すると、その経験が基になって、その後の人生においても他者への思いやりの感情を育むことが可能となるのです。

やさしさは誰にでも必要なものである

“やさしさ”や慈悲が、健康な生活、幸福な家庭、幸福な人生を築く上でとても重要であるということは、多くの科学者たちも同意することでしょう。脳の活性化や脳機能の発達のためにも、穏やかな心や慈悲深い心は極めて大切なものです。怒りや憎悪といった否定的感情は免疫力を低下させるのに対し、やさしさや慈悲心は免疫力を高めることにつながる、ともいわれています。こうした健康上の理由からもまた、心の平安や愛に満ちた心を育てることは大切なのです。

慈悲とは普遍的責任感を生み出す種子にほかなりません。知識はこの普遍的責任感の必要性を裏付けます。この二つが組み合わさったもの、それが本当の意味での普遍的責任感です。

ツツ大主教が賛同して下さるかどうか分かりませんが、私はいつもこのような問題は、宗教とは関係なく、常識レベルでアプローチしています。そしてこの人間としての基本的価値を通じて語られた倫理のことを、私は「宗教の枠組みを超えた倫理」と呼んでいます。このような倫理観や慈悲心は、宗教を信じているかどうかに関わらず、すべての人にとって必ず必要なものなのです。そして、すべての人がこのような愛情を育むことができるのです。そして、これこそがすべての道徳や倫理の根幹となるものではないかと思われます。

ディスカッション

村上和雄

ありがとうございました。ただ今のダライ・ラマ法王の基調講演に関しまして、ツツ大主教、ベティ・ウィリアムズさんからのコメントをお願いします。

ツツ大主教

ありがとうございます。私が今までお会いした中で最も神聖な方のおひとりに続いてお話するのは、とても恐縮します。

ダライ・ラマ法王はいたずら好きなところもあるお方です。とは言え、格別に心の平穏さを持っておられます。五十年近くも亡命生活を送られているのを考えますと、怒りや苦渋に辟易されているのではないか、と想像してしまうのも仕方がないでしょう。ですが私たちの目の前におられる法王はどうでしょうか。内面からの喜びに満ち溢れておられるではありませんか。法王はまるで小学生のようにいたずらっぽく、私は時々「もっと聖人らしくしてください」っていわなければならないほどです。

彼は私たちにとっては、大変に素晴らしい“贈り物”だと思います。彼は自らが愛してやまない祖国、そして自分を慕ってやまないその人々から引き離され、苦悩を強いられています。それにも関わらず、彼の内面からはすべての人類に対する慈悲心が溢れ出ています。

私たちは新しいパラダイムを必要としています。私たちは共に生きている、このことを学ばなくてはなりません。私たちがここに生存し続けるための唯一の方法、それは自分たちが共に生きているというこの事実を知ることです。そしてこれが、私たちが人間らしくいれるための唯一の方法なのです。同時にそれは私たちが自由であるための唯一の方法でもあるのです。

とても簡単なレッスンです。神は私たちを共に生きるようにとお創りになられました。私たちはこんな簡単なレッスンを学ぶのに、どうしてこんなに長い年月がかかっているのでしょうか。ご存知の通り、あまりに多くのものを所有している人がいる一方で、ほとんど何も所有することができない人がいます。この不安定な状況はいま現在起きています。けれども、神はこのように望んでおられます。「自分が享受し切れないほど多くのものを独占するよりも、分かち合うことの素晴らしさ、それを学んで欲しい」と。

私たちは世界に向けて言わなければなりません。特に若い方々は、私たちのような年長者に向かって言わなければなりません。人々を絶望的にさせる状況が世界の多くの地域で起きている限り、「テロとの戦い」に勝利することは決してないのです。とてもシンプルなことでしょう。法王がおっしゃったように、私たちの一人ひとりが、より正しく、より深く、よりシンプルに、他人に対する責任感を育まなければなりません。なぜならば、他人とは私たちの姉妹であり、兄弟であり、家族だからです。神はこうおっしゃっています。「私の子どもたちよ、いつの日か、このとてもシンプルなレッスンを学んでほしい」と。

ベティ・ウィリアムズ

まず、この素晴らしい会議を企画なされました実行委員会のみなさまに感謝申し上げます。私たちは日本に着いたときから、まるで王様か女王様のように扱っていただいてます。どうもありがとうございます。いま私の横には、私の二人の英雄がおられます。おふたりのことは、心より敬愛しています。

愛というものは純粋なものであり、生命もまた純粋なものであることを私は母より学びました。私はいまはもう孫もいるお祖母さんになってしまいましたが、法王のお話をうかがい、自分の息子を出産した時のことを思い出しました。

もうずいぶん昔の話です。当時は分娩麻酔もなかったので、長くてとてもつらい出産でした。ですが息子が生まれた時、誰かが「痛かったでしょう」と尋ねたのです。私は「痛みって何」「痛みなんて感じませんでしたよ」そう答えたのを覚えています。といいますのも、私の腕のなかには、こんなにも美しい奇跡の子がいたからです。

それまでにこれほど強い愛情を感じたことはありません。これほどの親しみを感じたこともありませんでした。自分の息子があまりにも愛おしくて、母乳を与えながら、泣いてしまったこともあります。そしていま息子が立派な大人に成長し、私は子どもの人生のために、自分が正しいことをしてきたとはっきり言うことができます。

私にとってはこのような場に立たせてもらうために、「ノーベル平和賞受賞者」という肩書きは要りません。私はどんな肩書きよりも立派な肩書きを持っているのです。そしてそれは私は「母である」ということです。

意見や立場の違いを乗り越える

会場からの質問

私たちの社会生活では、どうしても意見が違う人、立場の違う人、嫌いな人というのがいると思います。そういう人と仲良く手をつなぐためには一体どうすれば良いでしょうか。また世界平和を実現するために、私たちのような一個人がすべきことは何だと思いますか。

ダライ・ラマ法王

もちろん見解の違い、意見の違いというものはあるものです。異なる宗教と宗教との間だけでなく、仏教のなかにも様々な異なった見解というものがあります。仏教の中にある見解の相違は、もともとは仏陀が意図的に説かれたものですので、仏教には、当然のこととして異なった見解が存在しています。また宗教以外の分野でも、行政システムの違い、経済システムの違い、文化の違い、民族の違い、世代の違いというような様々な違いというものが存在しています。

しかし、私たちには共通する点が一つあります。それはすべての人が幸福な人生を求めていること、すべての人が苦しみを求めてはいない、このことです。

大切なのは、誰もが幸せな人生を実現する権利を持っているということなのです。私たちは何のために生きているのでしょうか。それは幸せになるためです。日本の若者のなかには、不満や不安のためにドアに鍵をかけて引きこもってしまったり、最悪の場合、自殺してしまう人までいるそうですね。ですが、基本的には、どんな人でも幸せな人生を求めているのです。誰も苦しみを求めたりしません。誰もが苦しみを終わらせる権利をもっているのです。

私たちは「私は幸せになりたい」「私は苦しみを求めない」「私には苦しみを乗り越える権利がある」と考えて、自分のことばかりを気にかける傾向があります。しかしよく考えてみますと、私たちが自分のために何かを行なう場合には、「私が私に何かを与えてくれる」といった期待感に基づいて行動しているわけではありません。ただ何となく「私」や「自分」という意識に基づいて行動しているのです。この「私」という意識がもとになって、「私は幸せになりたい」「私は苦しみを望まない」と思ったり、自分のことばかり気になるようになっているのです。

ですがこれは他人もまったく同じです。どこに違いがあるのでしょうか。違っているのは、自分はたった一人しかいませんが、他人は六十億もいるということです。たった一人の自分と、六十億の他人のどちらが大切なのでしょうか。もし六十億の人々が幸せなら、そのなかのたったひとりの人間は自動的に幸せになれます。ですが六十億の人々が苦しんでいるのなら、逃れることはできないのです。こう考えてゆくことによって、他人への関心を高めることができるでしょう。

ベティ・ウィリアムズさんは、出産された時の経験について話されました。ほんとうは不快感や痛みもあったと思います。ですが愛情の強さ、思いやりの気持ちが肉体的な痛みに打ち勝ったのだと思います。

私たち一人ひとりが他者への思いやりという感性を育めば、自分個人の問題などさほど大切ではなくなるのです。逆に、もしも他人のことなど考えず、自分だけのことばかり考えるのなら、たとえどんな小さな問題であっても耐えがたいものに感じるでしょう。自分だけのことを考えていると、自然と心が狭くなってしまうからなのです。他人のことを考えると心はオープンになります。自分のことだけ考えるか、それとも他者のことを気にかけるか、そこで心の持ち方には大きな違いがもたらされるのです。

精神面についてもう一つのことを付け加えておきましょう。心がより穏やかで、より平安であれば慈悲深い行動へとつながります。心がそのような状態にあれば、肉体的な病気さえ軽減されます。ですから、精神的な経験は肉体的な経験に勝るのです。以上のことは、慈悲が大切であることの根拠となります。

村上和雄

どうもありがとうございました。沢山の質問を寄せていただきましたが、時間の関係上、これにて第一セッションは終了します。いままでのお話のなかにみなさまの質問の答えはすでにでていると思われます。最後に科学の現場に五十年近くおりました私の立場から、一つコメントさせて下さい。

20世紀とは科学が著しく発展した時代です。ダライ・ラマ法王も科学に大変造詣が深く、二十年以上も科学者との対話を続けておられます。

20世紀の科学の最大の発見は、DNAとその働きが分かったことだと思います。カビも昆虫も植物も人間も、すべての生きとし生けるものは、まったく同じ遺伝子暗号を使っていることが分かったのです。これはすべての生きものが、地球の歴史から見ると、ひとつの兄弟や姉妹であること、そして、ひとつの元になる命につながっている可能性があるということです。だからこそ、私たちは愛し合ったり助け合ったり、あるいは人だけでなく、動植物や地球を思う心が必要なのではないかと思います。

ダライ・ラマ法王をはじめとする偉大な宗教家が説いてきたことが、科学の言葉を通しても理解できる時代に入っているのです。これが二十一世紀という時代の特徴であります。私は、遺伝子には「利己的遺伝子」だけでなく「利他的遺伝子」もあるということを見つけたいと思っております。

Session II →
Session II 子どもたちへの思いやり