2016.03.17

クンケン・ジャムヤンシェーパの生涯(2)青年期

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2016年3月13日は、クンケン・ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥーの命日にあたる日「クンケン・ドゥーサン」で、大本山護国寺にてゲシェー・ロサン・ゲレク師によりクンケン・ジャムヤンシェーパの生涯についての簡単な紹介がおこなれました。この記事は、そのレポートです。

今日は、チベット暦の2月5日にあたる日で、デプン・ゴマン学堂の問答の教科書を書かれた十七世紀の大学者クンケン・ジャムヤンシェーパの命日にあたります。ですので通常の法話会ではなく、このクンケン・ジャムヤンシェーパの伝記を簡単にみなさまにご紹介することを通して、その供養のひとつとしたいと思います。

中央チベットに行く

21歳になり、クンケン・ジャムシャーパは両親の許可を得て、中央チベットへ行こうとします。いまでもそうですが、地方の僧院で出家し、成人するころに本山に遊学する僧侶は沢山います。ゴマン学堂はそうした地方からの僧侶たちに学習の場を提供し、学習を終えるとまた地方の僧院に帰っていて、現地の僧侶たちの指導にあたる僧侶も沢山います。

ジャムヤンシェーパはラサに赴く前に少し体調を崩しと謂われています。そこで成就者ケルデン・ギャツォから黒文殊の許可灌頂を授かり、不浄なものを浄化することで健康を取り戻します。

そしてラサに出発しようとしますが、いまとは違い車やバスがないのでもちろん歩いていくことになります。アムドからラサまでは歩いて2、3ヶ月かかりますし、たくさんのものを持っては移動できませんので、ツァンパ(はったい粉)や少しの食料をもっていくことになります。チベットではこうしたラサへと行く道のりの途中で、修行のためにラサに行こうとしていることなどを伝えるともちろん途中の道すがらの街では、食料などを施してくれます。いまでも巡礼者や修行者がラサへと歩いて行こうとするとそういった施しを旅の人々にする習慣がよく残っています。ジャムヤンシェーパがラサに行こうとした時には、その数日前に具体的にその道すがらの山や街などが現れ、難なくラサへと赴くことができるようになりました。

道すがらの土地神や領主たちもきちんと施しをし、ラサに入っていく道の途中のダンリというところに至った時には、六臂大黒天のご尊顔が見えるといった不思議な吉兆が現れることとなりました。これは大黒天はゴマン学堂の護法尊ですので、特別な僧侶たちがこれからゴマン学堂に来ることになったを歓迎なされたことを表しています。

護法尊たちがこうやって高僧をお迎えするために、さまざまに示現することは、いまもよく起こることです。

たとえばダライ・ラマ法王は昔ポタラ宮殿におられたある日、ご自身がパルデン・ラモのお腹のなかにいて、ポタラ宮殿からデプン寺を見ると、デプン寺の大集会殿で大変美しいメロディーでデプン寺の僧侶たちが、ケードゥプ・ノルサン・ギャツォのパルデン・ラモの礼讃文を読誦された夢をご覧になられたことがあるそうです。このことからいまもダライ・ラマ法王はデプン寺に到着されるとすぐに僧侶たちにその礼讃文を唱えようとよくおっしゃいますが、それはその時の夢に由来するものだと言われています。

ジャムヤンシェーパがチベットに向かってくる時に大黒天が歓迎を表したのも、こうした現象のひとつであると言うことができるでしょう。

ラサ・トゥルナン寺参拝〜デプン大僧院タシ・ゴマン学堂へ

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ジョウォ・釈迦牟尼像

ジャムヤンシェーパはラサに到着されるとまずはジョカン(トゥルナン寺・大昭寺)にジョウォ・リンポチェをお参りされることとなりました。ジョウォ・リンポチェはチベットで歴史上最も重要な釈迦牟尼如来像です。チベット仏教で最も大切な仏像は、ジョウォ・リンポチェです。

ジョウォ・リンポチェは歴史上最初の仏像です。ジョウォ・リンポチェは釈尊御在世の時に建立されたもので、釈尊ご自身によって最初に開眼されました。その後、インド・中国の仏教の交流が盛んになったこともあり、最初はブッダガヤに安置されていたこのジョウォ・シャーキャムニは中国皇帝に献上され、その後ツォンツェン・ガンポ王の時代に唐の太宗皇帝の皇女であった文成公主(632-80)によってチベットにもたらされたもので、現在はラサのトゥルナン寺に安置されています。

ジャムヤンシェーパはラサに到着するとまずは、ジョカンに参拝にいらっしゃいました。ジャムヤンシェーパがカターを捧げるとジョウォ・リンポチェと壁面の文殊菩薩が微笑みかけ、そのカターを受け取られて、言葉を発されたといわれています。この故事に基づいて、「ジャムヤンシェーパ」(文殊菩薩が微笑みかける者)とという呼ばれるようになったのです。

またダライ・ラマ5世に謁見する時には特に可愛がられ、デプンに向かう時には、はじめてデプンを遠くから見るのと同時に、デプン寺の集会殿の法螺貝の音が聞こえてきました。デプンに着いてからはまずは様々なお堂に参拝されましたが、先代ダライ・ラマ法王の壁像が本人そのものとなり、様々に語りかけたり、ダライ・ラマ3世ソナム・ギャツォが建立したジェ・ツォンカパ像もツォンカパご自身となり、この新しい僧侶に対して、あなたがここで50歳になる頃にはこの寺の管長になるという予言をなされたのです。

このようにラサについてからもデプン大僧院に入るまで、諸尊たちに歓迎され、それが様々な吉兆として現れたといわれています。

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その年の9月25日にはゴマン学堂の当時の管長ルンブム・ロトゥー・ギャツォ師の御臨席のもと正式にゴマン学堂に入ることとなりました。ゴマン学堂では問答法苑(チューダ)を行う法会期間がありますが、新参の僧侶たちはなかなかその問答についていかれません。現在でもゴマン学堂では、毎日6時間以上もの問答法苑がありますが、新参の僧侶たちのなかには、1、2年経ってやっとその問答についていくことが出来るようになるものもいるくらいです。

しかしジャムヤンシェーパは通常1、2週間続く問答法苑を二回経験するとほぼ問答のやり方を学び、三期目からは非常に問答ができるようです。

デプン・ゴマン学堂にて学ぶ

こうしてゴマン学堂に正式に入門したジャムヤンシェーパは、ハルドン学寮に入ることになります。

ゴマン学堂のような大本山では、地方僧院から多くの僧侶たちがやってきますので、それぞれの地方の出身者があつまった学寮という組織があります。僧侶たちは出身地によってどこの学寮に所属するのか、ということは事前に決まっており、自分で好きな学寮に入ることは許されていません。それぞれの学寮では各地方から様々な物資の援助があったりしますので、地方学寮は比較的に学僧たちにとっては非常に便利なものです。

ゲルク派の総本山の僧侶たちはいまでもそうですが、生活面では地方学寮に所属し生活をし、学習についてはそれぞれの学級(ジンダ)というのがあって、その学級毎に問答法苑のなかで、問答をすることになります。

ジャムヤンシェーパは22歳の時には「聖典初級」(シュンサル)という学級に入ることになります。

ゴマン学堂での仏教修行は主に、聖典を暗記することと、その意味を問答して理解を深めることにあります。毎日問答法苑に参加して、同じ学級のクラスメートと自分たちが暗記している同じテキストについての問答を繰り返します。問答をするためには、そのテキストについての議論のポイントというものを事前に知っており、それについて考えていなければなりませんので、テキストについての講義を師匠から受けることになります。このテキストを教えてくれる先生のことを「ペティー・ゲゲン」といって、具体的にテキストの解釈や問答のポイントをこの師匠から教わることになるわけです。

これはいまも同じですが、ゴマン学堂に入ってからはどんな僧侶であっても自分で好きな師匠を「ペティー・ゲゲン」とすることが出来ます。ただ一度「ペティー・ゲゲン」を選んだら、後々にもずっと師匠として師事しなくてはなりません。

ジャムヤンシェーパは、当時の大学者であったチャンキャ2世ガワン・ロサン・チューデン(1642-1714)に師事することとなりました。

23歳の時には「波羅蜜第一章」へと進級します。縁起、アーラヤ識、二十僧伽、了義未了義という四つの付論およびゲルツァプジェの『解説心髄荘厳』の第一章をすべて暗記されます。ジェ・ツォンカパの『善説金蔓』などのを非常に詳しく学び、「加行道」の箇所にいたったときに、ちょうど人の背丈ほどの文殊菩薩が現れて、『現観荘厳論』のほとんどの意味が理解でっきるようになり、それ以降は、顕教・密教のどのテキストをご覧になっても、水のなかに小石があるのが分かるように明晰な理解を得れるようになったと謂れています。

翌年24歳のときには、「波羅蜜」の学級へと進み、『善説金蔓』の難しい箇所やハリバドラの『註釈意義解明』『了義未了義善説心髄』の自立派の章までをすべて暗記し、ジェ・ツォンカパの『入中論解説・密意解明』の前半の殆どを暗記し終え、同時にジェツンパやデレクニマ等の律や倶舎論を学び、分析力と見識を拡げられてた。同時に菩提道次第、秘密道次第論、怖畏金剛の生起次第・究竟次第のテキストや口訣を多く学び、文法学や詩学なども学ばれてよくそれらを理解され、波羅蜜の秋のダムチャーを比類なくなされたのである。

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25歳の時には中観の学級へと進み、『入中論解説・密意解明』を暗記し、インド・チベットのテキスト一般、ジェ・ツォンカパの5つの中観に関するテキスト、ケードゥプジェの『大特効薬』などをよく学ばれて、見解の重要なポイントを完全に分析なされたのである。26歳の時にはサンプ・ネウトクにて十難処の問答周繞(ダコル)を行われ、セタッパが現れ、「あなたの名声はこの地上すべてを覆うだろう」と授記されました。

27歳の時には、ポタラ宮殿にてダライ・ラマ五世より具足戒を授かり、29歳でギュメー密教学堂に赴かれ、ドルジェチャン・ロトゥー・ギャツォに師事され、密教を自在に学ばれ、その歳には『小注ティーカー』の読誦師をなされ、チュミクルンにても五次第赤註の実践をなされ、殊勝な境地に至られました。

ジャムヤンシェーパの学究生活

このようにクンケン・ジャムヤンシェーパ 30歳になられるまでの20代はゴマン学堂で仏典の学習をなされます。ここでの学習の過程やテキストはいまでも
ほぼ同じようなものですが、主にはインドの『量評釈』『現観荘厳論』『入中論』『阿毘達磨倶舎論』『律経』という五大聖典を、ジェ・ツォンカパとその弟子の注釈書をもとに学びます。

これはいまでもそうですが、ゲルク派の本山では基本的に暗記と問答によってテキストを学んでいきますが、ジャムヤンシェーパはこの期間は大変学業に必死でしたので着ている衣はボロボロに破れ、豆を水に入れて増やして召し上がるといった苦行をもなされたと言われています。

豆を水に入れて増やして食べる、というのはどういうことかというと、通常はお茶を沸かして、ツァンパ(はったい粉)とバターをこねて食事をするのですが、お茶を沸かすためには、まず火をつけなければいけませんし、蒔を切ったり様々な時間がかかります。

ジャムヤンシェーパの時代はいまの亡命僧院のようにお寺からの食料の支給はありませんし、もちろんラサの市街に出かけていけば食料を供養してくれる人もたくさんいますが、そんなことをしている時間が惜しかったわけです。もしも時間がすこしでもあれば、ひとつでもテキストを多く、深く学びたい、そういうお気持ちでしたので、豆を朝湯のみにいれておけば、夕方には水を吸って膨らみ、食料とすることができます。つまり食べるものも、着ている衣もつねにボロボロの着物を着ているものもそのようなもので構わないということなのです。

ジャムヤンシェーパは後にはゴマン学堂の管長になられ、様々な供物も自然とやってくるようになりますが、その時はネーチュン尊が貧しいジャムヤンシェーパを助けたと言われています。しかしながら、ジャムヤンシェーパは「私は若いときにこんな風にして苦労した。いま管長になって裕福になって困っている。あなたは私を裕福にする手伝いをするのをやめてくれ。どうか私を前のように貧しくしてくれ。」そうおっしゃったと言われています。

こうしたクンケン・ジャムヤンシェーパの学究生活は、いまでもゴマン学堂の僧侶たち全員の見習うべきお手本となっています。私たちは決して物質的に豊かであることが大事なのではありません。

〔続く〕

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