2010.01.04

「一切智」の意味は、無辺無数の衆生の心とその能力のその一切を知るという意味です

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【質問】 滅諦というのは「常楽」の境地といいますが、それのどこがいいのかよく分かりません。また煩悩と習気が無くなった仏の境地に達するとどんな気持ちになるのでしょうか。

【回答】滅諦のことを「常楽」(究極の幸福)といいますが、これはたとえばこういう事です、〈自由〉というがありますよね。〈自由〉というのは、〈快感〉ではありませんよね。ですが、〈自由〉が有れば、〈恐怖〉はありませんよね。〈恐怖〉に基づく〈苦しみ〉もありませんよね。そしていつも平穏な状態になるじゃないですか。

「解脱」というのは、この〈自由〉と同じことです。煩悩によって束縛されていると、煩悩に支配されています。ですから自由はありません。自由がないからこそ私たちは、楽を望んでも楽にならないんです。普通の幸せを望んでいても、なかなか幸せにはなれませんよね。幸せを逃してますよね。苦しみは望まないのにやってきていますよね。どうしてなんでしょう。自由にならないからそうなるのであり自由があれば、みんな幸せになりたいので、幸せになれる筈ですよね。苦しみは無くなるべきですよね。

これが自由にならない証拠じゃないですか。そして自由にならない事は、苦しみを本質とする事ですよね。不自由から逃れたら、それは幸せじゃないですか。ですので煩悩がこの原因となっています。煩悩はその人を苦しめていますよね。煩え悩ましていますよね。

また所知障は煩悩と同じ様に、苦しみをもたらすものではありませんが。この煩悩が残した習気なのです。煩悩が残した習気が、「所知障」と謂われるものです。それは何をしているかと言うと、所知(認識対象)を知ることを、障げているのです。それが有るからといって、苦しむ事にはなりませんが、煩悩のように苦しみをもたらしはしませんが。所知を知るのに、障げとなっているのです。

ですから煩悩という敵を克服した解脱の境地を得るには、所知障を断じる必要は無いことになります。ですが一切智者の境地を、得るためにはその必要があります。「一切智」の意味は、無辺無数の衆生の心とその能力の“一切を知る”という意味です。これが「一切智」の意味です。

そしてこのような“一切智者”になるための障げが所知障なのです。それは煩悩の習気なのです。それを断じた時の心境はどうかといえば、“一切智者のみぞ知る”ですよ(笑)


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