2014.11.24

仏教を学んだ上で輪廻を信じる

東京と広島での過密スケジュールの合間を縫って、ゲンロサンが京都に来てくださいました。京都は紅葉に彩られとても美しい季節でした。

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今回は輪廻について説いてくださるよう、事前にお願いしていました。ゲンロサンも「日本には、輪廻を信じるのが難しい人が多いみたいですね」と、東京での説法の後に口にしておられました。

仏教では縁起を説きます。全てのものは他と関係して存在しています。他を苦しめると、他も苦しむし、自分自身も結果的には苦しみを享受することになります。自身が幸せを望むのと同じように、他の全ての生き物も幸せを望み、苦しみを望んではいないのです。そのため、他を害することをやめなさいと釈尊は説かれました。

もし我々が今生において不善の行いを行なえば、来世は地獄、餓鬼、畜生などに生まれ変わり、輪廻をさまようことになります。反対に、良い行いをすれば、来世は人、阿修羅、天などといった善趣と呼ばれる恵まれた境地に生まれ変わることができます。
では、どのようにして善業や悪業といったものを積むのかというと、 身体と言葉と心を通してです。身体を通して、他の生き物を殺したり、盗んだり、淫らな行為をしたりといった不善を行ないます。言葉を通して、嘘を言ったり、無駄話をしたり、人と人とを仲違いさせるようなことを言ったり、荒々しいことを言ったりします。そして心を通して、他人が持っている物を自分が持てればいいのにと考えたり、他の生き物を殺したり、傷つけたりしようと考えたり、業や因果がないといった誤った考えを持ったりします。これら不十善を行なうことによって、来世は地獄、餓鬼、畜生という三悪趣に落ちることになります。
三悪趣と呼ばれる境地に生まれると、どのような苦しみがあるのでしょう。これらの生き物は、一般に食べ物を得ることが難しいと言われます。畜生に生まれると、自由がなく苦しみを取り除くことはできません。餓鬼は、食べ物が得られず、また仮に手に入ったりしても口に入れられなかったり、入れても炎に変わったりします。地獄は暑さや寒さの責め苦に耐えなければなりません。このように輪廻の苦しみを知り、悪趣に落ちないために、他を害するような不善を行なってはならないのです。

「十二縁起」

では、どのように輪廻するのかについて、仏教では十二縁起が説かれます。この十二縁起とは、前のものによって次のものが生じるその方法が説かれています。まず、12のうち1番目は、「私」と考える意識、無明のことです。この無明によって輪廻が生じるため、これが輪廻の根本であると説かれます。木でも花でも、根っこがなければ幹や茎、葉っぱや花は生えてこないのと同じように、輪廻の根本である無明がなくなれば、輪廻も無くなるのです。「私」という思いから始まり、「私」に執着し、他を殺すなどの不十善を行なって輪廻することになるのです。そのため2番目は行為である行です。そしてその行動の習気とよばれる潜在力をとどめる場所となる意識が3番目に説かれます。これら無明、行、意識の3つは、輪廻を引きだすものと呼ばれます。そこから4番目の名色や5番目の六処といった、五蘊や感覚などがうまれてきます。これら4番目から7番目までは引き出されたものと呼ばれます。そして愛、取、有という成立したもの3つを経て、11番目の生に至ります。ここで我々は生を受けることになるのです。そして、生じた限り、全ての生き物は12番目の老いと死を経験しなければなりません。いまだかつて、釈尊を含め、死んだことのない生き物はいないのです。
このように、輪廻に生まれる限り、苦しみを味わう他ありません。人にも苦しみがあることは、誰でも経験的に知っています。ですが、人間は努力すれば苦しみを無くすことが可能です。もし悪趣に落ちてしまうと、人のように自由はきかず、ただ苦しみを忍受するしかありません。少し考えてみても、悪趣が苦しい境涯であることがわかります。
そのため、釈尊は「苦しみを断じなさい」と説かれました。仏教では、苦苦、壊苦、行苦の三苦を説きますが、このうちの行苦を断じない限り、たとえ人に生まれたとしても苦しみ続けるのです。

「苦しみを断つ」

では、どのように苦しみを断つのか、その方法を知ることが必要です。全ては縁起しており、原因と条件によって成立しています。例えば、家を例にして考えても、柱や壁や梁といった部分によって家が成り立っていることがわかります。これは粗い縁起の考え方です。細かい縁起の見解とは、一切は独立自存の存在としては成立せず、言葉で名付けられただけのものであるという、空性を理解することが必要です。我々がいつも読誦している『般若心経』には、全ては自性として空であることが説かれていますが、そのことをよく理解し、智慧を生じさせることです。もし、そのような智慧を生じさせることが出来たならば、輪廻の根本である無明を無くすことができます。種が無くなれば果がなくなるのと同じように、無明を無くすことが出来たならば、輪廻もなくなるのです。我執という間違った考えは、空性を理解する正しい智慧によって、その間違いを正すことが出来るのです。
我々は無明を断つために努力しなければなりません。無明を断つことによって、業を積むことがなくなり、生を受け、老いて死ぬことが無くなります。これが永遠の幸せです。今の輪廻の中でも、幸せや楽しみを味わいます。しかし、今が幸せだからといって、次の瞬間も幸せであるかどうかはわかりません。今日元気だから、明日も元気だとは、誰も言うことは出来ないのです。我々の幸せとは、一時的な幸せに過ぎないのです。
まずは輪廻の仕方を知り、輪廻に生まれることの苦しみを知ります。それらを正しく知ることによって、そのような苦しみから離れたいという出離の念が生じ、解脱を求めるに至るのです。繰り返し繰り返し輪廻について考えることによって、このような思いに至ることが可能なのです。また、解脱には三つの境地が説かれています。1つは煩悩障を断じた声聞の解脱。2つ目は煩悩障とあらい所知障を断じた独覚の解脱。これら声聞と独覚は自分のためだけの解脱であるため、輪廻はしませんが、完全な解脱ではありません。そして、3つ目は大乗の解脱。これが最上の解脱であり、大乗に入るべきであると説かれています。仏(サン ゲー)という言葉は、過失を取り除いたという「サン」という言葉と、一切智などの全ての功徳を備えているという「ゲー」という言葉からなりますが、仏となるその目的は、一切衆生のためなのです。
釈尊は三度法輪を転じられました。我々は釈尊の説かれたその道に入り、間違った点を正す方法に努めることによって仏となることが出来るのです。どのような生き物であっても、仏となることができます。そのことは多くの典籍に説かれています。『入菩提行論』には、「人に生まれていながら、どうして自と他を益する菩提心を得ることにつとめないのか」と説かれています。煩悩のなすがままになると、自分だけではなく他も苦しめることになり、生じるのは苦しみばかりです。

「心を分析する」

「もし、怒ったらどうなるのか?」というように、自身の心を分析してみることが必要です。煩悩のなすがままになれば、自他ともに苦しく、結果的に三悪趣に落ちることになってしまうのです。貪・瞋・癡のなすがままになればどのようになるのか。反対に、慈・悲・菩提心といったものを持つことが出来れば、どのようになるのか。菩提心は他の生き物のために、自身が仏となりたい願う心です。また悲とは、他の生き物が苦しみから離れるようにと願う心です。そのように考えることが出来たならば、他の生き物に対して怒ることもなくなります。心にどのような益があるのか、どのような害があるのかということを分析することが重要なのです。利害がわかれば、次は方法を知らなければなりません。原因のないところに結果は生じませんので、果を生じさせるために方法に努めるなければなりません。
仏教の根本の教えは、他を利益することです。釈尊も「他を害してはならない」と説かれました。ですので、もし、他の生き物を害するようなことをすれば、仏教の教えにも反することになるのです。たとえ利益することが出来なかったとしても、少なくとも害してはなりません。

「悪行を何もなすべきではない
善行を普く行じなさい
自らの心を統御すること
これが諸仏の教えである」

心が煩悩の思いのままになっていないか、自他ともに害してないか、よく分析することが必要です。そして、分析した上で、実践していくことが重要です。心に何か考えが生じたとき、それは益があるのか、他を害していないかどうか分析するのです。たとえ嘘をついて一時的には自分に利益があったとしても、長い目で見れば悪業を積み、来世で悪趣に落ちる原因を作っているため、間違った行為だということがわかります。一時的にも将来的にもどちらも益があるのかよく吟味し、利益があるとわかったならば実践するのです。
今は人身を得ており、考える機会に恵まれています。しかし、来世悪趣に生まれればそのようにはいきません。今解脱を求めずして、来世でと考えるのは難しいことです。人身とは一般に如意宝珠の宝よりも優れたものであると言われます。なぜならば、如意宝珠によって解脱や涅槃は得られないからです。解脱するのはこの人身によってです。しかし、人身を得るためには前世での戒律や祈願など、いろいろな条件が揃っている必要があり、非常に得難いのです。そして、仮に得たとしても、非常に壊れやすく、一瞬後も死なないとは誰も言うことは出来ません。シャンティデーヴァが「舟によって川を渡るようにこの人身によって輪廻から解脱する」と説かれたように、この貴重な人身を得ているいま、そのことを無駄にせず、来世解脱できるように努力しなければなりません。

「朝夕に心を顧みる」

他を利益する心を何度も何度も考え、慣れ親しんでいくことが重要です。朝起きたとき、「仏様のおかげで今日も起きることが出来た」とまず考え、その日一日どんな仕事をしようとも他を害さないと心に思いましょう。そして夜、眠りにつく前には、その日自分が行なった行動を振り返り、身体と言葉と心を通じて、良いことを行なっていた場合には回向し、その日を無駄にせず仏の教えを実践できたことを喜びましょう。反対に悪いことをしてしまった場合には、そのことを懺悔し、明日は同じことをしないと考えれば、徐々に良くなっていくでしょう。寝る前に良い心を持てば、寝ている間も善業を積めると言われます。

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「もともとチベット人は輪廻を主張していたわけではありません。釈尊の教えをチベット語に訳し、学んだことによって輪廻を信じるようになったのです。輪廻を信じることが出来ないのは、勉強が足りないのかもしれませんね」

以上が京都でのゲンロサンの説法の内容でした。ラマウムゼーになられるため、来年の来日は難しいかもしれないとのことでしたが、また先生の説法をお聞きできる日が来るのが楽しみです。

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