作成日: 2009-11-29 最終更新日: 2016-09-25 作成:事務局

【M3 忍辱波羅蜜】

M3には三つ。N1忍辱とは何か、N2忍辱の分類、N3心相続にどのように起こすか。

N1 忍辱とは何か

〔忍辱とは反撃して〕加害行為や〔自らの側に〕苦痛が生じることを思うことなく、心を安穏に持続させ、法に対する信解が安定していることである。これの逆のものは、瞋恚、落胆、不信や無気力である。ここで、忍辱波羅蜜とは、自らの怒りなどを制止する心の習慣化が究竟していることに過ぎないのであって、暴力的な有情と離れた状態にあるかどうかは無関係である。

N2忍辱の分類

N2には三つ、すなわち他者が害を為したことを何とも思わぬこと(耐怨害忍)、自らの心相続に苦しみが起こっていることを克服すること(安受苦忍)、法への信解がきわめて安定していること(諦察法忍)。

N3 心相続にどのように起こすか

N3には、O1忍辱の功徳を修習しなければならないことと、O2忍辱しないことの過失を修習することとの二つがある。

O1 忍辱の功徳を修習しなければならないことと

これは後に敵対者が少なくなり、親しいものと別れなくなり、楽と心の楽がより多くなり、後悔することなく死ね、身体が滅した後に、天のなかに生まれることができるようになると思うことであり、『波羅蜜集』にも

利他を捨ててしまおうと思う心持ちの時には
最勝なる方法は忍辱であると説かれている
それは世間の善を円満にすることであり
怒りという過失から忍耐は完全に救い出す
力を持つものたちの最勝の荘厳であり
苦難に耐えうる術がある者たちにある最勝の力である
害心の荒原の野火を消す水であり
今世と来世の九害を忍辱で取り除く
最勝なる者の忍辱という鎧には
たとえ荒れ狂った者たちが言いがかりの矢を弾いても
彼らを礼賛する賢き花へとかわってしまい
誉れ高き心地よい花輪となるだろう

と説かれているのであり、“美しき功徳を具足し相好で荘厳された色〔身〕を実現し作りだす工巧明処とはまた忍辱である”と説かれているのであり、〔こうした〕功徳に非常に強い堅固な確定を得るまで修習するのである。

O2 忍辱しないことの過失を修習すること

『入菩薩行論』では次のように説かれている。

千劫に渡り積集してきた
布施や善逝への供養などの
善行がいくらあろうともそのすべてを
たったひとつの怒りが破壊してしまうのである

これはアールヤシューラが〔『ジャータカマーラー』第二十一章で〕著されたものの通りに示したものであろう。『文殊師利遊戯経』では「百劫の間積集した善を破壊する」と説かれている。この〔怒りによって善根が破壊される〕対象について、菩薩でなければならないとするものもあれば、有情一般であると考えるものもいるが、そのうち前者については『入中論』で

何故ならば、勝子たちに怒りをいだくことで
布施や戒などより生じた百劫の間積集してきた
善業を一刹那で破壊してしまうからである

と説かれているものに一致している。

怒りを生じるものの所依とは、菩薩が怒るのならば善根が破壊されてしまいその限り菩薩ではなくなるので、菩薩に対して怒ることは言うまでもなく、その〔善根がなくなる〕対象が菩薩であるかどうかの確定があるのかないのか、怒りの根拠に過失が見受けられているのが真実かどうかということについては、先ほど解説したように、善根を破壊する場合と同じであると『入中論自注』で説かれている。

一般に善根を破壊するためには、必ずしも菩薩に対しての怒りは必要ではない。『所学集成』で説一切有部の文献とし引用されるものによれば、「比丘が御髪や御爪の供養塔に信心をもって一切の支分で礼拝をした時には、金輪際の黄金の砂に至るまでのまでの距離で足で踏む砂の数と同数の千倍の回数の転輪聖王の王権を受容することになる」と説かれている。また「その善根は梵行者に傷を負わせたり、負わさせたりするならば、消滅してしまうだろう。したがって火杭に対して怒りを抱かぬのならば、心あるものの身体は言うまでもないのである」と説かれる通りである。

ある賢者は次のように考える。「“善根を破壊する”という意味は、過去の諸善の果を速やかに起こすその能力を破壊することであり、果の応報を延期し、それより先に瞋恚などの果を応報させるということなのであって、〔果を生じる能力がなくなり〕再度縁と合った場合には、各々の果の応報がなくなるということではないのではなかろうか。何故ならば、如何なる世間道も所断の種子を断じ得ないのであり、その限り、雑染法によっては種子を断じることなど不可能であるからである。」このように説いている。

しかしながらこれは論拠が不確定である。何故ならば、凡夫が四力対治で不善を浄化し清浄であるということは、種子を断じていないにも関わらず、それ以降、再び縁と合うことがあっっても異熟が発生し得ないことであるからであり、加行道頂位や忍位を得た時には、邪見と悪趣の因といった不善の種子を断じていないにも関わらず、それ以降は再びたとえ縁と合った場合でも邪見や悪趣への転生が起こりえなくなっているからである。

〔『倶舎論』で〕「業はその重さに応じて」と説かれるように、善不善の如何なる業であろうとも先に異熟したものが、一時的にそれ以外の他の業を異熟させる機会を抑制してはいるけれども、単にそれだけのことで“善不善の業が破壊される”ということの意味であるとすることは不可能であり、そうしたことは説かれていないからである。単なる一時的な異熟の延期を“善根が破壊された”ということの意味であるとすることもできない。さもなくば不善業の力を有するすべての者は、善根を破壊したものであると説かねばならないことになってしまうのである。

このようなことからこのことについて、阿闍梨バーヴィヴェーカは先にも説明したうように、不善を四力対治で浄化することと、邪見・害心によって善根が破滅するということの二つは、弱体化した種子はたとえ縁と合っても芽を生じないのと同様に、それ以降は再び縁に合っても果の応報が不可能になっていることであると説かれているのである。

これについてもまた、既に説明したように、積集した罪業をいくら四力対治で浄化しても、上位の道が生じるのが延期されてしまうことには矛盾がないのと同様、ある場合には、たとえ布施を行い持戒した果たる受容や身体の円満が生じることといったことを破滅させたとしても、与えたいとか断じたいといった思いを修習するといった相応因によって、再度布施や戒といった善根を生じやすく出来ることまでをも破滅させてしまうことが不可能な場合もあるのである。また別の場合には、たとえ内的な戒等の相応因が継続的に生じ続けていることが破滅してしまったとしても、身体や受容等が円満となることの可能性を破滅させてしまうわけではない場合もある。更には、既に説いた通り、もしも授記を受けている菩薩に対して怒りを生じたのでないのならば、一劫かけて究竟して至ることのできるある道の証解が、ひとつの怒りの思いが生じた時には、心相続に有るその道を破滅しまうわけではないが、一劫の間その道に至ることが延期されてしまうことがある。このような場合と同様なのである。

つまりは、不善を浄化するためには、必ずしも為した行為のそのすべてを浄化する必要がないのと同様に、善を破滅させる場合でも、必ずしもその行為すべてを破滅する必要はない、ということではないだろうかと思われる。しかしこのことは極めて重要なことであり、ただひたすら仏の聖言のみとそれに基づいた正理によって検討しなくてはならないことは確実であるので、善く教説を閲覧して検討せねばならないだろう。

こうした強烈に不快な異熟を導き出すことや、異なった快適な異熟がもたらされないようになってしまうことは、〔今世で〕直接経験できない〔忍辱をしないことの〕過失である。

これに対して直接経験し得る〔忍辱をしないことの〕過失は、落ち着いた判断ができなくなったり、それ以前にあった歓喜や快楽が消滅しそれ以降は得られなくなってしまったり、眠れず心が落ち着かなくなったり、嫌悪感が強ければ過去に受けてきた恩義を忘れてしまい殺してしまったり、親類や友人にさえも見放されてしまい、〔彼らにいくら〕施しをしたとしても〔自分のもとには〕留まってもらえなくなったりすることであると『入菩薩行論』では説かれている。

また『入菩薩行論』(第六章四偈)では

瞋恚のような罪悪はない 忍耐のような苦行はない
それ故敢えて忍耐をこそ 種々の方法で修しなくてはならない

と説かれるように功徳と過失を思い、さまざまなやり方で忍辱を修習することに励むのである。

非常に危険な異熟でもあり、善根を破滅させる悪業とは、瞋恚だけであるとは限らないのであり、断見という誤った見解、正法を誹謗すること、菩薩や師を軽蔑し、我慢を生じることなどなのであり、これについては『所学集成』にもとづき理解しなければならない。

では、一体どのようにして加害行為を何とも思わずに、忍辱をするのであろうか。

〔まずは〕加害者がその行為を行なわない自由があるかを検証する。それについて自由があるにも関わらず傷害行為をなしているわけではない。何故ならば、そうした過去に習得した煩悩の種子と非如理作意などの因縁が傷害行為を起こそうとさせているのであり、それが傷害行為のための準備をさせ、それが他者に苦痛を発生させているからである。加害者自身も煩悩の支配下にあり下僕の如き者であるからである。〔加害行為を抑止する〕自由もなく他者に強要された加害行為であるにも関わらず、〔それに対して〕憤慨するというのは理に適っていない。というのも、たとえば魔に憑かれそれに支配された者は、自らそれから逃れるために役に立つ者に対してさえ危害を加えたいと思い、殴打等を為す場合にも、“これは魔の為すがままとなったことにより、否応なしにそのように為されたのである”と思い、彼に対しては少しも憤慨することなく、その魔から何としても逃れるさせることに励むであろう。菩薩もまたそのようにすべきであるからである。『四百論』では

怒りについてもまた、魔に囚われている者に医師が憤慨しないのとと同様に
牟尼は煩悩をこそご覧になられるのであって、煩悩に縛られている人物をではない。

とあり、アーチャールヤ・チャンドラキールティもまた「これこれは有情が過ったものなのではないのであって、これは煩悩が過ったものであると考え、賢者たちは有情に対しては憤慨しないのである」と説かれている通りである。

加害行為によって発生した苦痛の経験も、それが自ら過去に為した悪業の果の経験なのであり、そのことによってその業が消滅しつつあるのであり、それを忍耐することを修習すれば、後に苦しみを経験する因を新たに積むことはない。しかし、もしも憤慨してしまえば、それよりもより大きな苦痛を経験しなくてはならなくなってしまうだろう。したがって、大きな病気を治す方法として鍼灸治療に耐えるかの如く、大きな苦しみを退けるために小さな苦しみを耐え忍ぶということは極めて合理的なのである。

苦痛を克服する忍辱(安受苦忍)をどのように修習するのか。苦痛が起っている時に、それが快復しつつあるのならば、嫌悪感を起こす必要がない。またもしも快復不能なものであれば、それをいくら疎んでも、意味はなく、それは不必要であり、何ものをも生み出すことはなく、過失さえもある。精神力が弱ければ、小さな苦しみであっても極めて耐え難いが、精神力が強いのならば、大きな苦しみであってもそれを忍ぶことができるからである。

心で苦痛に類するものをどのように捉えればよいのだろうか。こうした苦痛がもいのであったら、輪廻からの出離したいと思うこともないので、解脱を心に促すためには役立つものである。また苦痛が降りかかるということはその時には慢心によって高慢になっている気持ちを鎮めることに役立っている。強烈な苦しみを感受するのならば、それは不善によって生じたものであるので、それを望んだものではなく、その限り、その原因から退けなければならない。それ故に罪業を慎むために役立つのである。また苦しみに悶えるということは、楽を望みそれを必要とする限り、善を成就しなければならないので、善を成就することを喜ぶために役立っている。自らが経験していることを思うならば、他者も同じように苦しいのだろう、と思い輪廻に対して悲心が起こるものであると理解する。そしてこうした苦しみは望むべきものなのであると思い、何度も何度も修心するのである。これもまた

いくら修習しようともそれがより容易くなることがないようなものは何も無い
したがって小さな害になれることで、大きな害を忍耐しなければならないのである

と説かれるように、苦悩を克服する思いという鎧を身に着けて、小さな苦痛から順々に取り込んで行くのならば、苦痛に対する耐久力が徐々に広大なものとなるだろう。

またどのように法に対する決定心を信解することに耐えること(諦察法忍)を修習するのか、といえば、信の対象である三宝や現証すべき対象である二つの無我、望んでいる対象である、仏菩薩の力と取捨選択すべき善行・悪行の因ならびにそれらの結果、修習対象である、獲得対象であるところの菩提とそれを獲得させる手段であるところの菩提心を学ぶための道、聞思の対象である十二部教説等の正法、これらのものを偏ることなく信解する心をつちかうのである。