作成日: 2010-04-25 最終更新日: 2016-09-25 作成:事務局

L2 他者の心を成熟させる菩薩行

四摂事とは

“布施”とは以前の波羅蜜の箇所で解説した通りであるが、“愛語”とは所化に波羅蜜を説くことである。“利行”とは説いた通りの利益を所化が享受するようにさせたり、正しく受持するようにさせることである。“同事”とは他者が目的としているその目的に、自らも住してそれに応じて学ぶことである。『大乗荘厳経論』では

布施は〔六波羅蜜の布施波羅蜜と〕同じだが、それを説くこと、受け入れさせることと、自らもそれに従って行動するということで、愛語・利行・同事といわれるのである。

と説かれている。

四つある理由

それでは何故“四摂事”と決定しているのだろうか。

これは周囲のものが善に結びつかせるために摂取する時〔の状況によっているのである。すなわち〕まずは〔彼らが〕それを歓びとしていなければならないが、それについてはまた財施を施すことで身体に利益がもたらされることに依存している。

このように歓びとすればその後に道へ入ろうとするが、その時彼はどうしたらよいかその方法を知らなければならない。これについてはまた愛語によって法を説き、そのことで無知や疑念を捨て、意味を不転倒に捉えさせる。(愛語)

そのように理解したときには、利行によって善の実現に従事させるのだが、これについてもまた自らが実行していなければ他者を“〔善悪の業への〕進退をこのようにしなくてはいけない”と説いても、「あなたですらそのような事を実行してないのに、他人に何故それを実行しろと言うのか。あなたもまだ他者によって改められるべきなのである」といって実行することを聞き入れことはない。自らが実行したものであるのなら、自分が実践しているその善業にあなたも従事することで、これを実行すれば、必ず私にはこういう利益と楽が生じるだろうと思い、〔周囲のものたちもその善業に〕新たに従事しはじめるし、既にそれを実行している者たちもまたそこから退くことなく、堅固なものとなるので、そこで同事が必要なのである。

すべての所化のすべての利益を実現するものであり、賢き方便であると諸仏は説法されたものであるので、周囲のものを集めるものは、これに依るべきなのである。

周囲のものを摂集するものたちはこの方法に正しく依るのである。
それは一切の者のすべての利益を実現するものであり、
賢き方便であると〔諸仏によって〕推奨されている。

三昧と後得における四摂事の実践の仕方

これらを三昧と後得においてどのように成就するだろうか。これについてはジョウォ・チェンポ(アティシャ)が

菩薩行とは偉大なる六波羅蜜などである。
三昧から起きた瑜伽行者はこの資糧道を堅固に成就する。

と説かれているように、菩薩戒を護持して資糧道に住している初学の菩薩は、三昧と後得のいずれを行うときでも六波羅蜜より逸脱することはない。したがって六波羅蜜を三昧において実行する場合もあるし、後得において実行する場合もある。禅定そのものたる止と智慧そのものである観のいくつかは、三昧時に修習し、〔布施・戒・忍辱の〕前三波羅蜜および禅定・智慧のある部分は後得において実行する。精進は、三昧と後得の両方あり、忍辱の一部である、甚深法への決定思の一部は、三昧においてあるものである。ジョウォ・チェンポは

三昧より起き上がった時には、幻などの八つにたとえられる一切法を見ることを修習し、それに従っている分別を常会して、方便を学ぶことを主になすべきである。三昧時には、止観の平衡をたもち、それ継続することを常に修習すべきである。

と説かれている。

菩薩行を習得したいという気持ちだけでも重要であるということ

こうした希有にして行い難い行は、心が浄化されていないものが、聴聞しても心に苦痛を起こすものであるが、菩薩たちでさえもはじめはそれを承諾することすらできなかったが、理解した後にそれは最低でも望み願う対象であると修習できた時には、それ以降は、努力によらずとも自然に従事できるようになるように修習することが重要なのである。何故ならば、実際には従事できないと思い、それらの心を修めようとすることを習うことすらやめてしまえば、清浄なる道から遥かに遠くへと遠ざかってしまうからである。『無辺功徳讃』にも、

聴聞したとしても、この世間にはおいては〔そんなことはできもしないと自信喪失してしまうなどの〕障害が起こるであろう〔それだけでなく、仏世尊〕あなたご自身ですら長くそれをお認めになることもなく、実行されることもなかったのです。そのような行をあなたは習い、時に任運なものとされたのです。このような理由からも、諸々の功徳というものは、それを習うことをしないのならば、増大することはできないものなのです。

と説かれている。

以上のことから、菩薩戒を護持する者は、〔菩薩〕行を学ばないという選択肢はないが、たとえ行心を儀軌で授かっていない者でも、それを学びたいという気持ちを抱くよう努めて、行を学ぼうという気持ちが強く増大した時に戒を授かるのならば、非常に堅固なものとなるのであるから、それに努めなければならないのである。

以上が、上士の道次第のうち願心修学および菩薩行一般の学習の道次第の説明である。