作成日: 2010-03-28 最終更新日: 2016-09-25 作成:野村 正次郎

M6 智慧波羅蜜

M6には三つ、すなわちN1 智慧とは何か・N2 智慧の分類・N3 心相続に如何に起こすか。

N1 智慧とは何か

一般的に智慧とは、考察している事物において法を決択するもののことであるが、ここでは五明処に通じることなどの智慧である。
『道次第広論』では『菩薩地』を引用し、菩薩が地を得るまでの間は、一切の所知へと向かおうとしている知は五明処に通じるものであり、地を得た後すなわち見道以降の者には、一切の所知へと向かっているという区別を行っている。

N2 智慧の分類

〔智慧を分類すると〕勝義を理解するもの・世俗を理解するもの・有情を如何に利益するかを理解するものとの三つがある。第一のものは、無我の実義を対象普遍を通じて計量するものと、現前することを通じて計量するものとの二つがある。第二のものは、五明処に通じる智慧のことである。第三のものは、有情の現世と来世との利益を罪なく成就する方法を理解するもののことである。

N3 心相続に如何に起こすか

智慧を起こすことの功徳と起こさぬことの過失とを思うことである。

最初の〔智慧を起こすことの功徳〕については、〔ナーガールジュナの〕『智慧百論』で

見える功徳・見えない功徳
そのすべての根幹は智慧である
その両方ともを成就するために
智慧を正しく持たなければならない

などと菩薩は、たとえ乞食に肉などを施しても、薬木の幹から取ってきたもの如く、〔こんなことは他の人にはできないだろうなと〕思い上がったり〔こんなにつらい思いをしてしまったと〕落ち込んだりする分別で右往左往することはない。これは智慧が実義を現前していることからなのである。

また有と寂静とが破滅であると見ている智慧は、戒を他者の利益のために成就し、それによって戒を清浄化する。忍耐しないことの過失と忍耐することの功徳とを智慧は理解することで心を統御し、そのことによって、邪なことを成就したり、苦しみに翻弄されることもない。智慧は、精進を発動させるための基盤を正しく知って精進することで、道をより意義深く享受する。実義たる対象に住する禅定の最勝なる安楽は正理の方規に基づく智慧によって成就するものなのである。したがって布施などの前五波羅蜜の清浄化とは、智慧に依存しているものなのである。

矛盾しているかに見える二つの功徳を智慧を有するものは矛盾することなく成就するということは次のようなことである。すなわち菩薩が四大州を支配する転輪聖王となった時に欲望の対象に支配されるようにならないのは、智慧という大臣をもっていることの力なのである。同様に有情が好ましく見える慈心がいくら強力であろうとも、貪欲とは似ても似つかぬものである。また有情の苦悩に堪え難いという悲心が強力で永続していようとも、悲しみに明け暮れて善へと勇まぬ懈怠は無い。喜無量を有していても、有情が所縁から散乱してしまうといった本末転倒はない。偉大なる捨を継続的に有していても、衆生を利益することから一刹那たりとも気が散ることはない。これらは智慧が為していることなのである。何故ならば、それらを同じ比率で成就してしまうという障害を智慧が退けられるからである。

 『礼賛すべきものへの礼賛』では次のように説かれている。

法性を捨て去ることはなされずして
世俗とも対応しているのである。

このように、相執が所縁とするものしているものによっては微塵程も成立していない、ということに大いなる確信を得た法性を捨てる必要はないのであり、内外の因縁よりそれぞれの結果が生じることについて心の底からの確定を得て、世俗ともまた矛盾することなく対応しているのであり、智慧の力が無い者にとっては、大いなる矛盾であるかもしれないが、智慧を有するものにとっては矛盾するこはなく、相応したものなのである。また『同書』では、

許されたこと 禁じられたこと
君のことばは いづれかに確定なされたものもあります
しかしいづれとも確定なされていないものもあります
それが相互に矛盾していることもないのです

と説かれているように、大乗・小乗、顕教・密教というの二つのなかには、許可されている事項と禁止されている事項とが一致してない多くのものが有ることとそれらを一人の人が実践することとの二つは、教説を学び密意を探る時に、知力のないものには矛盾しているけれども、賢者には矛盾しているものではない。そしてこれは智慧によって為されることなのである。

〔智慧を起こさぬことの〕過失についてであるが智慧と離れているのならば、布施などの五つや見解が清浄になることはないのである。『波羅蜜集』には次のように説かれている。

智慧なくしていくら果を追求したとしても
布施などで自分自身が清浄にはなることはない
利他を施すことこそが最勝の布施であると説かれる
それ以外のものは財を増やすための準備なのである

智慧なくしていくら果を追求したとしても
布施などで自分自身が清浄にはなることはない
利他を施すことこそが最勝の布施であると説かれる
それ以外のものは財を増やすための準備なのである

明瞭な智慧が闇を取り除かないのなら
清浄な戒を有してそれが何となるのだろう
多くの者は智慧が無いからこそ
戒などを知る欠陥により煩悩で穢れてしまう

誤った智慧の欠陥により心が濁っているとすれば
忍耐の功徳はそこに有ることがどうして信じれようか
善悪の分別を喜ばないことを習いとして
取り柄のない王として名高きが如きである

賢者たちには素晴らしいものと称讃される
これよりも微細甚深なものは他には無いのである
欲望という欠陥によって遍く障げられた心は
直線の道を智慧なくして赴くことはない

智慧を習わしとすることに励まぬ心をもっていれば
その者は見解を清浄なものとすることはないだろう

ここで「王として名高き」というのは功徳の無い王として一度は有名であるがそれは滅びてしまうということである。

以上のことから智慧を起こす必要があるが、その因となるものはまた、清浄なる典籍を心の能力に見合った聴聞することである。『波羅蜜集』には次のように説かれている。

聞法少なき盲人は修習の仕方を知らない
それなくして一体何を思うというだろう
それ故に聞法に励まなければならない
それを因として思いのままに修習することで
智慧は広大なものとなるであろう

至尊弥勒も次のように説かれている。

何であれ三輪を分別するもの それは所知障だと謂われる
何であれ慳貪などの分別 それは煩悩障であると謂われる
智慧以外のこれらのもの以外に断ずべきものは何も無いのである
それ故智慧は最勝でありその基盤は聴聞である
だからこそ聴聞こそが最勝のものなのである

『所学集成』では次のように説かれている。

耐えるべきものたる聴聞を求めるがよい
その後に森林に住するがよい
三昧に入り精進するがよい

 過去の勝れた方々は次のようにおっしゃっている。

まずは聴聞した法が心にまとまって有るようして、それを何度も何度も繰り返し考え、量り、分析する必要がある。法を忘却させて心を維持することだけを学んでもそれは助けにならない。偉大なる修行者には偉大なる師が平凡な修行者には平凡な師がでてきるのである。修習したその程度に応じて法への理解は大きなものとならなければならないのである。このように考えることで、決定知が堅固なものとなるのならば、“善不善の一切の思いは分別であるのであり所断である”と悪友の声が聞こえるかもしれない。しかし法にはそのように説かれていないのであり、善知識もそのようにはお考えにならないのだ、そう思えば、彼のことばに耳を貸さぬようになる。さもなくば信心がいくらあろうとも智慧がなければ、泣き声を聞これれば泣き、笑い声が聞こえれば笑い、興奮した声を聞けば興奮し、あたかも水が流れるかの如く、人に言われたことを真実であると思い彼らにつられてしまうのである

智慧を学ぶ際に六波羅蜜をどのように具足すべきかということについてであるが、自らが智慧に住しつつ他者を智慧へと向かわせることが智慧の布施であり、残りのものは以前のものと同様である。