ここでは基本的なチベットの歴史をご紹介します。
古代チベット時代(~6世紀)
現在のラサから東南にあるヤルンツァンポ川の周辺地域で、チベットの首長たちがお互いの領地を治めていました。そのいくつかの首長たちの中で、ヤルルン谷の首長が君主となったのがチベット最初のリーダーだといわれています。
伝説ではニャティ・ツェンポがチベット最初の王といわれます。「ツェンポ」とは「強い者」という意味です。代々のツェンポたちは天から降臨し、死ぬ際には縄を使って天に帰っていったと神話では伝わっています。
吐蕃王国時代(6~9世紀)
ソンツェン・ガンポ王(581 or 617-649)の時代になると、王は現在のラサに都を移し、ネパールの王女ティツン(ペーサ)を迎えました。そしてソンツェン・ガンポ王は、自分の息子グンソン・グンツェンに王位を譲渡し、唐の王女である文成公主(ギャサ)を息子に后として迎えさせました。しかし、息子が夭折したため数年後、文成公主を自分の后として迎えたのです。ティツンはトゥルナン寺(チョカン)、文成公主はラモチェ寺を建立したといわれています。この時代に仏教がチベットへ伝来したといいます。
8世紀のティソン・デツェン王(742-797)は、インドから密教行者パドマサンバヴァと、ナーランダ大僧院のシャーンタラクシタ(?-787頃)を吐蕃に招きました。仏教の経典をサンスクリットからチベット語に翻訳するためでした。またこの2人の協力を得て、チベットで最初の僧院であるサムイェー寺が建立されました。また、王の子孫の時代にも国家事業として、多くの仏教典籍がチベット語へと翻訳されました。そのうちの一人、ティツク・デツェン王は仏教を国教と定め、多くの仏教の論書を翻訳、編纂したことで知られています。
9世紀、時の王ランタルマ(?-841)は仏教を排斥し、この時代チベットで仏教は衰退したともいわれます。しかしこれが史実なのかどうかは現在でもはっきりとしていません。歴史的にはランタルマ王の死去後、王の息子たちにより家督争いが起こり、国は南北に分裂しました。事実上一人の王による国の支配が崩壊したことで、吐蕃王国は分裂し国内は混乱したといいます。そのため、国教と定められていた仏教も混乱状態に陥ったといわれています。
仏教再興時代(10~12世紀)

西チベットでは一部の王族がグゲという国をつくっていました。グゲ国王イェシェー・ウーは仏法の勉強のため、1042年インドのヴィクラマシーラ僧院からアティシャ(982-1054)を招聘しました。またドムトン(1004-1064)という僧がアティシャの弟子となり、その要請によりアティシャは東チベットへ赴き、そこでも仏法を説きました。アティシャの死後、ドムトンはカダム派という教団をつくります。カダム派では、特に戒律と修行が重要視され、顕教と密教のバランスをとることが大切とされました。
マルパ(11世紀)はインドへ留学して密教行者ナーローパに師事しました。マルパとその弟子ミラレーパ(1052-1135)は、カギュ派の開祖です。ミラレーパは詩人としても著名です。
また同じ頃、クン・クンチョクギェルポによりサキャ派がつくられました。インド人のドクミ翻訳師から教えを聴聞しました。またサキャ派は氏族教団であり、座主は長期にわたり世襲制がとられていたことでも知られています。
この時代は、吐蕃王国時代からあったニンマ派に加え、新たにインドから伝来した、当時最新の仏教を導入したそれぞれの宗派が形成された時代です。
サキャ派政権時代(13~14世紀)
モンゴル帝国のチンギス・カン(1162?-1227)の孫コデンはチベットへ遠征し、当時既に学者として有名だったサキャ派の座主サキャ・パンディタ(1182-1251)をモンゴルへ招聘しました。サキャ・パンディタは中央チベットからゴデンのいる涼州の宮廷へ赴き、そこでモンゴルがサキャ派を庇護する代わりに、サキャ派がチベットの統治権を得るという内容の会談が行われたといわれています。このサキャ・パンディタは、チベットに招聘されたインド・ヴィクラマシーラ僧院のシャーキャシュリーバドラより論理学を学び、多くの典籍を残した人物です。
1260年、クビライ(1215-1294)が元の王に即位すると、サキャ・パンディタの甥パクパ(1235-1280)を国師、さらに1270年には帝師としました。
その後約100年間、サキャ派はチベットにおいて大きな権力を持つこととなりました。またクビライは中央チベットに「十三万戸」の区分を設け、各万戸の長に地方自治を行わさせました。14世紀半ばには、カギュ派の一派パクモドゥ派が中央チベットで力をつけていたこと、特にサキャ派のスポンサーであった元朝が倒れたことにより、チベットでのサキャ派の覇権は衰退することとなりました。
パクモドゥ派とリンプン派、ツァン派の時代(14~17世紀)
サキャ派政権時代の万戸の長であったパクモドゥ派のチャンジュプ・ギェルツェン(1302-1364)は、サキャ派と対立していました。14世紀半ばには、サキャ派の長がチャンジュプ・ギェルツェンに降伏し、またサキャ派の大臣が暗殺されたこと、そしてサキャ派の内部分裂が起こったことなどによりチャンジュプ・ギェルツェンが、中央チベットを治めることとなり、パクモドゥ派の本拠地ネドンを首都としました。
またこの時代、ツォンカパ(1357-1419)を開祖としたゲルク派が生まれました。ツォンカパの弟子達によりチベット各地にゲルク派の寺院が建立されました。その中でもセラ寺、デプン寺、ガンデン寺は、「セ・デ・ガの3つ」の寺院として有名です。
15世紀の半ば、パクモドゥ派政権タクパ・ギェルツェンの息子サンゲ・ギェルツェンがリンプン氏の娘と婚姻しました。タクパ・ギェルツェンが逝去すると、パクモドゥ派内部で後継者争いが起き、リンプン氏のバックアップを受けたサンゲ・ギェルツェンがパクモドゥ派の長となりました。しかし長となってまもなく罷免され、その代わりに妻であったリンプン氏の娘との長男が長になりました。このリンプン派政権は中央チベットの一部を支配することとなったのです。しかしながら、パクモドゥ派も中央チベットの一部で、ゲルク派の支援を得て力を未だ保っていまいした。それに対しリンプン派はカギュ派の分派カルマ派を支援していました。そのため、ゲルク派とカルマ派の間での寺院焼打ちも起こったのです。
16世紀半ば、リンプン派の重臣であった中央チベット・ツァン地方のツェテン・ドルジェが、リンプン派の本拠地であったシガツェを奪い政権を握りました。このツァン派政権はリンプン派と同じくカルマ派を保護しました。その後ツァン派政権は勢力を拡大し、シガツェ以外の中央チベットも治めるととなりました。
一方、元朝が滅びた後のモンゴルでは、仏教に帰依していたアルタン・ハン(1507-1582)がゲルク派のダライ・ラマ3世のソナム・ギャムツォ(1543-1588)を招聘しました。ソナム・ギャムツォはモンゴルで積極的に布教活動をおこないました。
モンゴルのグシ・ハン(1582-1654)は、ダライ・ラマ5世ロサン・ギャムツォ(1617-1782)から「護教法王」の称号を授かり施主となりました。施主となったグシ・ハンは、ゲルク派と対立していたカルマ派などを倒し、ツァン派の本拠地シガツェを陥落させ、ここにツァン派政権の時代は終焉をむかえることとなったのです。
ダライ・ラマ政権時代(17世紀~)
ダライ・ラマ5世はラサを首都とし、ガンデン・ポタン政権が生まれました。また、ラサのマルポリ丘にポタラ宮を建立を始めました。このポタラ宮は50年の歳月をかけて、ダライ・ラマ5世の逝去後完成しています。ダライ・ラマ5世はグシ・ハンの子孫たちのバックアップを得て、東チベットやラダック地方などにも勢力を拡大しました。またモンゴルへの布教活動も熱心におこないました。
ダライ・ラマ5世の影響力が非常に強かったため、摂政のサンゲ・ギャムツォ(1653-1705)は5世の逝去後しばらくそれを隠したといわれています。5世の転生者として1697年、ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャムツォ(1683-1706)が即位しました。6世は多くの歌をつくったことで知られており、現在もその歌はチベット人に親しまれています。その後政権は、歴代のダライ・ラマに受継がれていきました。
ダライ・ラマ13世トゥプテン・ギャムツォ(1876-1933)の時代になると、チベットはイギリスとロシア、そして清朝などの勢力争いに巻き込まれることとなりました。イギリスはインドを植民地とした後、ロシアと対抗するためにチベットも支配しようと考えていたのです。1903年、イギリスのヤングハズバンド率いる軍はチベット侵攻を開始し、翌年ラサを占領しました。その際、ダライ・ラマ13世はモンゴルへ避難しました。さらにその後イギリスと清朝の軍事対立が深まりチベットは混乱し、13世はインドへ亡命することとなりました。しかし1913年の辛亥革命にて清朝が崩壊すると、イギリスによって13世はインドからラサに戻り、1913年から翌年にかけてインドのシムラにて、イギリスと中華民国、チベットの三カ国間による会議が行われました。このシムラ会議で、チベットの独立に関する締結がなされましたが、正式調印の際に中華民国は署名を拒否し、イギリスとチベット間で正式調印が交わされました。
ダライ・ラマ13世が逝去したのち、ダライ・ラマ14世テンジン・ギャムツォが後を継ぎました。1949年中華人民共和国が成立すると、中国は人民解放軍によりチベットは侵攻され、「17ヶ条の協定」の締結を余儀なくされました。しかし1956年、アムドとカム地方を中心として、チベット人の中国に対する抵抗運動が激しくなります。1959年にはラサまでその運動が波及したため、身の危険を感じたダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、現在に至ります。

