2012.07.17

日本別院訪問記: 空猫の初体験、チベット寺(1)

広島県在住のライター 空猫さんが日本別院を訪れて、野村代表のインタビューを記事にしてくださいました。身の回りでお寺を目にすることが多い日本でも、チベット仏教について知る機会はなかなかありません。お坊さんたちはどのような生活を送っているの?大祭の意味は?わかりやすくまとめてくださいました。

青く繁る広島・牛田の森の中にチベット仏教僧院「龍蔵院デプン・ゴマン学堂 日本別院」がある。

ここのところ、いろんな方面からダライ・ラマ法王の話を聞かされていた私(空猫)が、ひょんなことから、ダライ・ラマ法王も訪れたことがあるというこのお寺にお邪魔し、お寺のお世話をしている野村さんにお話を伺うこととなった。

Q.この日本別院はチベット仏教の僧院とのことですが、具体的にはどのような場所なのでしょうか。

野村正次郎(以下、N):

そもそも僧院やお寺というのは、お坊さんたちが集団で生活する場所です。

お坊さんたちは一般の人たちと1.5kmほど離れた場所で暮らし、日常生活の心配をしないように人里から離れた所で人間の心を見つめる、より優れた人間になるために生活しています。それが「出家」した人の生活です。その生活空間がお寺です。

彼らは仏教と向き合い、通常の世界では解決できない問題を解決するために、離れた場所に暮らしています。このような場所で暮らすこと自体がお坊さんの仕事なのです。

世界中の仏教国で、街角で托鉢しているお坊さんにお供えをするのは、そのような生活をしている人の価値が非常に大事だと思う心からです。フィギュアスケートにたとえると、スケートリンクがあれば、誰でも滑ることができますし、練習することで回転などもできるようになります。ですが、浅田真央選手のようにそのことだけに集中して、ストイックにスケートという技術を全身全霊、人生を賭けて追求をしていく人は、我々が単に趣味としてスケートをするのとは違いますよね。そういう選手を見れば我々は応援しなければと思いますし、浅田選手がバイトをするわけにはいかないですね。

お坊さんも同じで、仏教を究めようとする僧侶という存在自体に、社会全体が大切にするべき価値があるといえます。プロスポーツ選手をサポーターが応援するのと同じように、俗世間の人たちが僧侶を供養することそのものが、仏教を人々が大事にしていることの現れです。

このような形はお釈迦様の時代から、チベットだけではなく、スリランカやタイなどの僧院で続いています。そのようなあり方は、旅行に行ってちょっと観光したからといってわかるものではないし、お寺の建造物だけを見てわかるものではありません。

それまで日本にチベットの僧院はなかったので、日本にチベットの仏教を紹介する拠点として、まずは、僧侶のあり方そのものを紹介する場が必要でした。我々日本人がチベットの僧侶というのはどういう存在なのかを理解するためには、まずその生活を知らなければなりません。

こうして、チベットからお坊さんたちを迎えたわけですが、彼らはチベット仏教の布教をしに来ているわけではありません。仏教には乞われないのに布教してはいけないという決まりがあります。余計なお世話はしてはいけません。

仏教は「あなたはこうしなさい」という宗教ではなく「どうしたらよいのでしょうか」と聞かれたら、その人の直面している問題に対して「こうしてはどうでしょうか」と解決策の「案」を提示する宗教です。これを「対機説法」といいます。その案を採用するかどうかは個人の自由です。僧侶と一般の人は近からず、遠からずの距離を保つことが大事です。

先ほども話したように、チベットの僧侶の集団生活を、実際に目で見て触れる機会が日本にはここ以外にありません。カルチャーセンターの講座などはありますが、僧侶がいる場所が街中のカルチャーセンターであってはおかしいんですね。そこで布教を行なうことは僧侶の仕事ではありませんし、この社会に僧侶がいるということの、私たちにとっての意味を感じ取って欲しいと思います。

私たちは、今日のこと、明日のこと、来年のことというように近い将来を考えています。しかし、チベットでは宗教とは必ず死んだ後のことを考えることから始まると言われています。ですから僧侶は、通常の我々の考えるよりも遥かに長いスパンで考えています。

我々は日常生活で苦労して、いろんな問題にぶちあたっています。しかし、僧侶のように長いスパンで考えている人と接することで、自身の視野の小さいことを感じて、新しい視点を得ることができます。それが、お寺や神社という、神や仏とつながっている場所の存在意義なのです。
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Q.日本別院のお坊さんたちはどんな生活をしているのですか。どのような行事がありますか。

チベットにはチベット暦という独自の暦があります。チベットの人はこの暦に基づいた伝統的な生活をしています。主な月例の法要としては、本山のゴマン学堂と同じように、チベット暦の毎月8・9・25日と第一水曜日に行っています。

例えば第一水曜日は、運気を運ぶ「ルンタ」と呼ばれる風の馬が空の上をたくさん飛んでいる日とされているので、良い香りを飛ばして運気を呼び寄せます。お坊さんたちはその日に特別な供養することで、自分たちを含めたすべての世界がうまくいくようにとお祈りしているのです。

そして年間では「お釈迦様が何かを行った特別な日」である四大節があります。その中のひとつで、日本の暦で今年は7月23日に行われるのが「初転法輪大祭(しょてんぽうりんたいさい)」です。

その昔、ゴータマシッダールタはブッダガヤでさとりをひらきブッダとなりました。それが4月15日とされています。ブッダはそのさとりを人々に説く時機を一人静かに考えていました。時が熟し、ブッダは共に修行していた5人の仲間に、サルナートの鹿野苑(ろくやおん)で「我々の味わっているもののすべてが苦しみであることを知りなさい」と初めて教えを説き始めました。ブッダがさとりをひらいてから49日後の6月4日のことでした。このことを「初転法輪会」といいます。日本では今年は7月23日にあたります。

苦しみは、誰かに与えられたものではなく、すべては自分の心で作り出したものであり、その苦しみには終わりがあるとブッダは教えています。これは四聖諦(ししょうたい)と呼ばれています。この教えを2500年前にブッダが初めて説いたという、世界三大宗教のまさに始まりの日なのです。

宗教とは、地図のようなものです。その地図を持って歩くのは私たち自身なのです。でも知らない道を一人で歩くよりは、仲間がいた方が楽ですよね。そして地図を熟知したお坊さんは仲間です。

世界にはさまざまな宗教がありますが、アジアの、特に日本の人にとって仏教は無関係ではありません。信仰しているかどうかという問題ではなく、無関係ではないということが大事です。人が亡くなれば葬式をして法事をしたりお墓を建てますね。昔から日本の建築にも取り入れられていたり、漢字の文化もその一つです。四大節は、私たちの生活とは無縁ではない仏教というものが、いったいどういうことを言っているのかなと、年に4回見直すチャンスの時なのです。

Q.初転法輪大祭などの四大節の日に、私たちは何を考えればよいのでしょうか。

ブッダが教えを説いた6月4日から何千年も世界中で無名の数えきれない人が、その教えに関わってきました。特に僧侶たちは、その日に教えについて思い直しています。我々は信仰のあるなしに関わらず、どういうことなのか問いかけることがまずは大事ではないかと思います。

例えば私たちはお正月の朝に「今日は特別な日」と思うでしょう。それと同じように、ブッダが仏教を説き始めた日は特別な日だと思うことを望んでいます。この日本に生まれて、仏教になんらかの関わりを持っているわけですから、この記事を読んだ人が少しでも今日は特別な日だと思ってくれればいいなと考えています。

特別なことというのは、自分の考え方や感じ方にあると思います。楽しいこととは、ものの見方を変えることから始まると思っています。最近は宇宙旅行をする時代ですが、何億円とかけて大気圏の外で無重力を15分体験するだけです。でも、考えてみたら私たちは毎日この地球に住んで、宇宙空間を移動しているわけです。月を歩いても地球を歩いても宇宙旅行になるということに普段は気づかないのです。

ほとんどの「もの」はいつかは滅びるし、人間だって僅か数十年しかこの世にとどまることができないのですが、仏教の伝統は2500年も続いています。伝統というのはこの世の誰かが価値があると思わなければ続きません。何千人何万人もがその価値を感じて伝えてきたのです。その価値とは私たちが幸せを感じるヒントがあることです。仏教というのはお寺に行って修行しなくても、一円も払わなくても私たちが幸せに感じることができます。教えはそこにあるのです。


取材を終えると、お寺のアボさんお手製のおひるごはんが振る舞われ、安堵の気持ちがこみ上げてきた。お寺にはじめて訪れた時も仏前にお参りする私たちに、ゲン・ギャウはとびきりの笑顔とカタコトの日本語で「お茶をどうぞ」ともてなしてくださった。

信仰心をとりたてて持たない私がここにいて失礼はないのだろうかと、最初は戸惑っていた。ハーブがほのかに香る野菜たっぷりのごはんをいただきながら、このようにお坊さんたちの生活に触れて欲しいという野村さんの話を噛みしめるのだった。

 

※日本別院での初転法輪大祭についてはこちらから

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