作成日: 2010-03-27 最終更新日: 2016-09-23 作成:事務局

L3 報恩心の修習

こうして生死流転してきたことで単に面識がないこと以外には、恩義のある、苦しんでいて救われることのない、自分の母親のことを顧みずに見放ししてしまい、自分だけが輪廻から何とか解脱できれば、と思うことほど恥知らずなことはない。

〔ナーガールジュナの〕『友に与える書』にも説かれている。

親しき者たちは輪廻の海に堕ち、流されており、見えている。にも関わらず生死流転によって面識がない者たちを見捨て、もし一人だけ脱出しようとするのなら、それよりも恥知らずなことがどうしてあるだろう。(1)Suḥṛllekha. DT309a3-325a3, Taisho 10:429b; Taisho 9.278:775b

しかるにそのような恩義の有る者を見捨ててしまうことは、品行の悪い人々においても正しくないことであり、そうであれば自分の行動としては何とも相応しくないものであると思い、恩返しをしなくてはならないという責任感を抱くのである。

それでは一体どのような恩返しをしたらよいのだろうか。母親自身もこの輪廻の楽や享受をいくらかは獲得してきたのであるが、それらすべてによって欺かれなかったことはない。しかるに、自分が過去に煩悩という魔に支配されたことで拡がりひどくなってしまった傷口に岩塩を塗ってしまい〔傷口がより拡がってしまうような〕促進剤を与えてしまうかのように、自然に苦しむことになる者たちに更にさまざまな苦しみを生みだすかも知れない、慈愛によって利益をもたらしてくれた彼らを解脱という涅槃の楽へと導かなければならない、と思って恩返しをしなくてならないのである。

つまるところ自分の母親は記憶も定かではなく狂ってしまい、目も見えなくなってしまったが、導き手も居らず、一歩一歩つまずきながら歩き、恐ろしい絶壁をいつも目の当たりにして歩んでいる。その母も自分の息子に頼れなければ、一体誰を頼りとするというのだろうか。

またその息子に母親をこの恐怖から解放してやろうという気持ちが起こらなければ一体誰に起こるというのだろうか。故にそこから解放してやろうとしなければならないのである。同様に、母親である一切の有情たちも、煩悩という魔によって心の安らぎは乱されてしまい、自分の意識も制御することもできなくなって発狂しているのである。決定勝や増上生への道を見る眼ももっていないし、正しき友という導き手も居ないのであり、一瞬、一瞬悪行の為すがままになってしまいつまずいてしまい、輪廻やそのなかでも特に悪趣という絶壁へと向ってしまっていることを見れば、母親も息子に頼りにせざるを得ず、また息子にその母親を救い出すことがかかっているのである。

以上のことから、このように思って輪廻から必ず救い出してやる、という恩返しをする必要があるのである。『所学集成』にも

煩悩によって発狂し、無知によって眼は見えなくなってしまっている。多くの絶壁に面した道で歩くたびにつまずいている。自分も他人も常に苦しみの場にいるのであり、そこを行くものたちも同じ苦しみを味わっているのである (2)Śikṣāsamuccaya.364

と説かれている。このように考えて〔一般的には〕「他人の欠点を探すことは正しくない。何らかの長所があれば素晴らしいと捉えなければならない」と説かれているけれども、ここでは無力な状態に結びつけて考えるのが正しいことなのである。

注釈   [ + ]

1. Suḥṛllekha. DT309a3-325a3, Taisho 10:429b; Taisho 9.278:775b
2. Śikṣāsamuccaya.364