Last Updated: 2010.01.19

J1 輪廻一般の苦を思う

中士との共道における観想の対象のそのすべてのなかで共通のものは、下士の箇所で説明したものをここでも採用すべきなのであり、不共のものについては知力があればここに記すように採用するとよい。もしも知力が弱いのならば、ここでの聖典の引用部分は省略してそこで意味されている内容そのものだけでも採用すればよいであろう。

これは観察の修習であるが、修習すべきこれらの対象とは異なった善・不善・無記などのいずれにも心を向けることなく心が所縁に対して掉挙することなどを止めて、睡眠や¥UTF{60DB}沈に任すのではなく、極めて明らかな実直な心で継続的に修習しなければならない。何故ならば『入菩薩行論』では、

読誦や苦行等をたとえどんなに長く行じても心が他のものへと散乱するのならば、そのことによってもたらされる果実はないと説かれている

と心が他のものへと散乱する善行のそのすべては利益も小さいと説かれているからであり、また『大乗修信経』でのも、

善男子よ、このようなさまざまなやり方でこのように菩薩たちの大乗を信解するのであり、大乗〔経典で説かれている〕如何なるものであってもそのすべては一心不乱にその義法を正しく思惟したことから生じるのであると知らねばならない。

と説かれているからである。

ここで「一心不乱の心」といっているものは、善なる対象とは異なったものへと心が散乱してしまわないことなのでり、「義法」といっているのは、意味と言葉のことであり、「正しく思惟する」というのは、個別観察する心によって考察し思考するということである。それゆえに利益がある法を成就するそのすべての場合においてこの〔奢摩他・毘婆舎那〕の二つが必要であると説かれているのである。

このようなことから三乗の功徳を成就することのそのすべてにおいて心が善なる所縁より異なった他のものへと散乱することなく安定して集中するという奢摩他そのもの、もしくはそれに準ずるものと、善なる所縁を個別観察し、如実・如量を弁別する毘婆舎那そのものもしくはそれに準じる両方が必要であると説かれている。このようなことは、『解深密経』でも、「弥勒よ、声聞や菩薩や如来の世間・出世間のすべての善なる法は、奢摩他と毘婆舎那の果であると知らなければならない。」と説かれているのである。ここで止観とそれに準じるものとというように二つを挙げているのは、三乗のすべての功徳が止観から必ずもたらされるわけではないということである。

中士との共道における観想の対象のそのすべてのなかで共通のものは、下士の箇所で説明したものをここでも採用すべきなのであり、不共のものについては知力があればここに記すように採用するとよい。もしも知力が弱いのならば、ここでの聖典の引用部分は省略してそこで意味されている内容そのものだけでも採用すればよいであろう。

これは観察の修習であるが、修習すべきこれらの対象とは異なった善・不善・無記などのいずれにも心を向けることなく心が所縁に対して掉挙することなどを止めて、睡眠や¥UTF{60DB}沈に任すのではなく、極めて明らかな実直な心で継続的に修習しなければならない。何故ならば『入菩薩行論』では、「読誦や苦行等をたとえどんなに長く行じても心が他のものへと散乱するのならば、そのことによってもたらされる果実はないと説かれている」と心が他のものへと散乱する善行のそのすべては利益も小さいと説かれているからであり、また『大乗修信経』でのも、「善男子よ、このようなさまざまなやり方でこのように菩薩たちの大乗を信解するのであり、大乗〔経典で説かれている〕如何なるものであってもそのすべては一心不乱にその義法を正しく思惟したことから生じるのであると知らねばならない。」と説かれているからである。

ここで「一心不乱の心」といっているものは、善なる対象とは異なったものへと心が散乱してしまわないことなのでり、「義法」といっているのは、意味と言葉のことであり、「正しく思惟する」というのは、個別観察する心によって考察し思考するということである。それゆえに利益がある法を成就するそのすべての場合においてこの〔奢摩他・毘婆舎那〕の二つが必要であると説かれているのである。

このようなことから三乗の功徳を成就することのそのすべてにおいて心が善なる所縁より異なった他のものへと散乱することなく安定して集中するという奢摩他そのもの、もしくはそれに準ずるものと、善なる所縁を個別観察し、如実・如量を弁別する毘婆舎那そのものもしくはそれに準じる両方が必要であると説かれている。このようなことは、『解深密経』でも、「弥勒よ、声聞や菩薩や如来の世間・出世間のすべての善なる法は、奢摩他と毘婆舎那の果であると知らなければならない。」と説かれているのである。ここで止観とそれに準じるものとというように二つを挙げているのは、三乗のすべての功徳が止観から必ずもたらされるわけではないということである。


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