作成日: 2010-03-21 最終更新日: 2016-09-24 作成:事務局

B1 すべての教説が矛盾なく理解されているという偉大性

はじめにすべての教説が矛盾なく理解されているという偉大性について述べよう。

勝者が説かれたもののその一切が、ここでは一人の人が覚りに至るための道として理解されている。あるものは道の根本となるが、あるものは道の支分となる。そこで菩薩たちがお考えになられている目的は、世間の者の目的を果たすことであり、所化も〔声聞・独覚・菩薩という〕三つの種姓を有するものその三者すべてを摂取しなければならない。したがってそれら〔声聞道・独覚道・菩薩道といった三つ〕の道を〔すべて〕学ぶ必要がある。何故ならば、三乗の道を知る、ということは、菩薩のお考えになられている目的を成就させるための方便であると至尊弥勒が説かれているからである。大乗道にも〔小乗との〕共道・不共道の二つがあるが、そのうち前者は小乗蔵にも説かれるものである。これもまた自分だけが寂楽を追及するなどといった不共の志などの制限といた不共のものを含めないもののことである。

そもそも正等覚仏陀とは、一部の過失を尽し、一部の功徳を具えた方なのではない。彼らはありとあらゆるすべての種の過失を尽くされたのであり、ありとあらゆるすべての功徳を具えられているのである。したがって、それを成就するための大乗とはまた、すべての過失を滅却し、すべての功徳を生じさせるものであり、それゆえに、他の〔二〕乗の所断と証解の功徳の如何なる種のものであろうともそのすべてが大乗道に含まれるのである。このようなことから仏陀を成就するための大乗道の支分たるものとして、一切の教説が纏められる。何故ならば、何らかの過失を尽したり、何らかの功徳を生じさせることもない牟尼の教えなどあり得ないからなのであり、そのすべてを成就しない大乗者など居ないからである。

「波羅蜜多乗ではその通りであるが、金剛乗に入るときはその通りではない」と思うかも知れない。もちろん、波羅蜜多乗のような、布施等のすべての個々の項目をすべてを学ぶ、という側面だけに注目すれば、それは密教とは異なっている。しかし、行の所依たる発心、行たる六波羅蜜を学ねばならない道の全体像を見れば、両者は全体として異なっていない。そしてこのことを意味して語るとき、〔両者は〕共通していると言える。『金剛頂経』では「例え命を捨てることがあろうとも、菩提心は捨てるべきではない」「六波羅蜜を行じる時には、如何なる時も捨てるべきではない」と説かれ、このことは真言の聖典の多くで説かれている。多くの無上瑜伽タントラの曼荼羅についての正統な儀軌にもまた共・不共の律儀は二つずつとも守る必要があると説かれているのであり、そのうちの前者のものは、菩薩律儀であるからである。ドムトンパ・リンポチェのお言葉にも「すべての教説が四方の道によって〔目的地である仏陀の境地へ〕辿り着くとご存知の方が私のラマである」と説かれており、この文意をよく検討することが重要なのである。