作成日: 2009-09-27 最終更新日: 2016-09-25 作成:事務局

N3 戒波羅蜜を心相続にどのように起こすか

 清浄なる戒とは、行うべきことと止めるべきことの制約通りにそれを実践することに依存している。そしてさらに守りたいという強く確固とした意欲にそれは従っているのであり、これが生じるためには、守らなかった場合の過失と守った場合の功徳とを永く修習する必要がある。このことは先に中士の箇所でも説明したが、これはまた『波羅蜜集』には次のように説かれている。

戒律を損ない自利を実現できなければ
利他の活動も力なく効果なくなってしまうだろう
それゆえ利他に精進することにより
これに仕えようとすることを緩めてはならない

戒律とは殊勝位を得るための道であり
悲を心にもたれる方々と等しくさせるものであり
智慧が清浄にして希有になるための本性であり
瑕疵なき荘厳となる最勝のものであると説かれている。
三界すべてに心地よく薫る香水である
出離したことに反さない塗香である
着物は同じであっても持戒しているのなら
人のなかにあって彼は聖者となるのである

 それ(戒)に基づいて、心相続はより向上してゆくものなのであり、悲を心にもたれる摩訶薩たちと所学を等しくさせるものである。また悪行の一切の種子を断じた清浄なる智慧を得させるものである。これ以外の荘厳は年をとりすぎた者や若すぎる者には似つかわず美しくないけれども、戒律という荘厳は、老年の者にも、中年の者にも、若者にも誰がそれを付けていようとも、すべての人が歓喜する最高の荘厳なのであり、これ以外の香りとは、風向きに従っては香るが、風が向いていない方向には香らないので、あくまでも特的の方角に限定されたものに過ぎないが、戒律と呼ばれる香りは、すべての方角へと香るものである。熱さを取り除く栴檀の塗香は出家者には違反するものであるが、煩悩という熱さから救うこの塗香は、出家者に違反するのではなく、相応しいものなのである。出家者の印だけを有しているのは同じであっても、戒律という宝を有することは、他者よりも優れている者であると説かれているのである。

 『同書』では

言葉に出して語らず苦労することもなく、
必要な受容を自ずから集めてゆくものである
罪を犯すことなくして一切世間は跪くだろう
貪ることなく成就することなく自在天位となるだろう
語られることもない種姓に生まれることになるだろう
役立つことや遠のくことのいずれもしないでも
過去には親交すらなかったすべての人々がまた
戒律を持すこの人に跪くのである
足で踏み吉祥となった塵さえもまた
頭頂へと戴かれるものになるだろう
天人が頭面礼足しすべての人に運ばれるのである

と説かれているが、このように思わなければならない。

 このように三聚浄戒を持っていても、摂律儀戒である別解脱戒の定めているものそのものもしくはそれに共通する行うべきことと止めるべきことを行うことは、菩薩にとってもまず最初に重要である。それを守っているのならば、他のものも守っていることになり、それも守っていなければ他のものも守っていないことになるから、菩薩の律儀戒が失わればそれ以外のものも失われてしまうと『摂決択分』で説かれている。

 したがって、別解脱戒とは声聞独覚のものであると思い、その行うべきことや止めるべきことが制約されているものを捨て去って、菩薩は何らかの他の所学を学ばなければならないと述べてしまうことは、菩薩の所学の要をとらえていないことなのである。律儀戒とは他の二戒の基盤であり、所依であると繰り返し説かれているからである。

 律儀戒のなかでの主要なものとは、性罪を断じることであるが、性罪のなかでも過失の大きな重要なものをまとめたものが十不善の断であるので、これについては少しの動機すらも起こることのないように、心を何度も律するべきなのである。『波羅蜜集』には次のように説かれている。

上界や解脱の楽への道である
十業道を損なわないようにすべきである
さまざまな思いによって果もたらされるので
身口意を正しく律しなくてはならないのである
要するに戒律であるとして勝者が説かれているものは
すべての戒律をまとめたその基本であるので
それゆにこれらのものを常に学ばなければならない

要するにそれ(律儀戒)を基本として自らが受戒したすべての戒律の学処を学ぼうとする律心などを何度も何度も培うことが戒律の実践である。これを六波羅蜜を具足するようにする仕方については、自らが戒律に住し他者をそこに導くことが布施であり、それ以外のものは先ほどと同じである。