2012.05.10

それぞれの道

「最近の者たちは、携帯電話で話しばかりして、勉強を全然しない」

昨年の来日中、ゲンロサンの口からそんな苦言がこぼれました。

昔は娯楽など何もなかったから、寺のための仕事の無いときは必死に勉強した。今は、仕事もなく生活も以前に比べればとても良くなったというのに、僧侶たちは携帯でべちゃくちゃ喋って、全然勉強をしようとしない

南インドにデプン寺院が再建された当時は、お金も無くとても貧しかったため、僧侶たち自らが建築作業や畑仕事にかり出されました。ゲンロサンやゲンギャウさんはその苦しみを経験した世代です。しかし現在では世界各国からの施主も増えてお寺の財政も潤い、以前に比べれば雑用も格段に減ったため、僧侶たちが勉強できる環境が整っています。ただその反面、現代社会の流れもお寺の中に入り込んできました。おそらく、小坊主さんを除いた殆どの僧侶が携帯電話を持っているのではないでしょうか。

また、僧院の中ではインターネットを使えるスペースがあります。ゲンギャウさんのお弟子さんたちの家にも最近Wi-Fiが入ったようで、いつでもネットを通して先生と話せる状態になっています。ただ、この場合、ゲンギャウ先生の監視の目が厳しくなって、お弟子さんたちは大変なんじゃないかとも思えますが。

インドだけではなく、チベット本土でも同じような状態で、殆どのお坊さんが携帯を持っています。中にはパソコンを持っている人もおられるようです。

「あそこのお寺のお坊さんはよくないよ」

ある日、チベット人の友人と街を歩いていた時、散髪屋の中で女性に目を奪われている僧侶を目にしました。

「街に出て、勉強もせず、あまつさえ女性に目を奪われて」

と、その友人は苦々しそうに口にしました。「でも、人間なんだから煩悩を持っているのが当然なんじゃないかな?」と私が言うと、

人はそれぞれ、歩むべき道がある。僧侶は僧侶の道を、私たちは俗人の道を。その道を違えると社会がむちゃくちゃなことになってしまう。彼らは出家の道を選んだ。その道を歩めないならば、出家はするべきではないよ

という答えが返ってきました。その言葉を聞いて、確かになと思いました。私たちは人である限り煩悩がつきまといます。しかし、その煩悩を断ち、輪廻からの解脱の道を志して出家したからには、僧侶としての厳しい道を歩まなければなりません。チベットで僧侶は人々の尊敬を集める存在です。それは一重に、彼らが俗人には歩めない厳しい仏道修行の道に入り、己を琢磨した上で、我々俗人を導いてくれる存在だからです。

チベットの聖者ミラレーパは、「不放逸な寂静処は楽である」と、人里離れた洞窟の中で一心に瞑想修行をされました。そしてその結果、即身成仏を得られたと言われています。現代のこの世の中で、ミラレーパのように瞑想に打ち込むことは非常に難しいです。しかしそれでもやはり、僧侶は僧侶として、また俗人は俗人としてのすべきこと、進むべき道を忘れてはいけないなと感じました。

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仮面舞踊の踊り子から着信音が聞こえた気がしたのは、気のせい・・・?


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