作成日: 2012-06-04 最終更新日: 2016-05-03 作成:野村 正次郎

サカダワの満月の余白に

Kakkou

カッコウが鳴く森のなかで

広島市内では「とうかさん」という御祭りで若い男女が、ぎこちない足取りで浴衣を着て歩いていた。広島の繁華街の浴衣の着初めのこの祭りと時を同じくし、街の外れの森のなか、日本別院ではいまから2500年程前の釈尊の降臨・成道・涅槃に思いを寄せ、今年のサカダワの法要が行われた。

法要は、森のなかでひっそり行われており、決して多くの人々の眼に触れるためであったり、観光客が来ることを目指したイベントではない。ブッダの〝特別な時〟に因んで、その教えの伝承者たちが毎日数時間、仏たちとの対話を行っている。

日本別院を取り囲んでいる森は梅雨の前の静けさとあたたかさに包まれて、ウグイスやカッコウが歌っている。チベットでは、カッコウは春の終わりに、厳しい雪が溶けた冷たく清らかな水と共に、ほんの三ヶ月だけその美しい声を聴かせてくれるらしい。チベット人はその落ち着いたあたたかさを堪能し、それは冬になる前のほんのすこしのあたたかさを味わえる季節でもある。

休憩時間にゲン・チャンパと話をした。

「ちょうど暑くも寒くもない、よい天気だね。仏法を実践するよい機会で、とても楽しいよ。」

日頃から口数が少なく、恥ずかしがり屋でもあるゲン・チャンパはこう口を切る。

日本別院の法要では、釈尊に対する多くの讃歌、すべての密教の根本経典である『聖妙吉祥真実名経』、論書の基本である弥勒の『現観荘厳論』、チャンドラキールティの『入中論頌』などが毎日唱えられている。

ブッダの特別な伝説があったその〝特別な時〟であるからこそ、ブッダをブッダたらしめる〝仏のことば〟を僧侶たちは自らの口から発することを通じて、その意味に思いを寄せる。

ブッダの教えを通じて自分のことを見つめ直す

一切衆生の利益を思うと同時に、少なくとも今生でこの人間としての生を終えるその時まで、仏法を日々の糧として実践できるように。そして死後もまた、再びこの地上に生まれてきて、仏法の享受できる境涯へと生まれることができるように。彼らの祈りは静かであり真摯である。

「チベットの暦は外国の暦とは違うし、外国の方にとっては分かりやすいものではないよね。毎年、みなさんが普段使っているカレンダーとは違う暦で法要をしなきゃならず、その施主の方々にも不便なのは私たちも分かっているよ。

でも今年は例年にも増して施主になって下さった方や御祈願を申し込んでくれた方が沢山いたからね。昨年はゲン・ロサンが来られて法話会があったので御参りの方は多かったけれど、今年は特にそういった催しものをしなくても、日々ちょくちょく御参りがあるよ。だから私たちも御陰で祈願をすることができていいなと思っているよ。」

大僧院で弟子たちに囲まれて、学友と共に心の奥深いところで語り合って暮らしていた僧侶たちが、この「日本」という宗教に対して些か冷淡な人々の多い社会で暮らすことは決して楽ではない。

サカダワの法要についても、インドでは盛大に行われるが、日本では細々とやらなければならない。私は日本人の俗人として彼らにそうした立ち位置を容認せざるを得ないことを強いていることを申し訳なく思い、ゲン・チャンパに次のように聞いてみた。

「いや、やっぱりこういう特別な時はインドの僧院で過ごす方が楽しいでしょう。日本でこういう大祭をするのとインドでするのとで気持ちの違いはありますか。」

ゲン・チャンパの答えは意外なものだった。

「サカダワの法要のこの時季のインドはとても暑く大変だよ。ゴマン学堂の法要は僧侶の人数も多く混雑して、お経を読むスピードも早く、法要が終わると汗だくになっちゃうよ。だから日本でこういう法要をやった方がよっぽど楽しいし、みんなのためになるよ。」

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「そもそもね、日本に居る時とインドに居る時は普段の考え方の持ちようも違うよ。

インドに居るともちろん仏典を学ぶ生活をしているし、それが日常だけど、なんとなく仏典の内容が心に別の形で浮かんできて、おかしなことになっている気がする。

たとえば、インドに居る時はほぼ毎日朝から晩まで問答しなくちゃいけないでしょ。だからいつも様々なことを論理的に考え、それを論証するための論理を考えておかなくちゃいけない。弟子や友だちも周りはそういう話ばかりしている。普段からこういう時にはどうやって反論するかとか、そういうことばっかり考えてるんだ。

でもさ、日本に居ると周りには大して人も居ないじゃない。だから仏教の教義のことも自分のことと結びつけて考えることができる余裕があって、これが本当なんだとも思うよ。

たとえば〝無常〟ってことがあるでしょ。これがインドに居る時は無常の定義である〝刹那滅〟とかそれを論証するための〝所作性〟とか、命題における論証因の条件や、推理の正しさ、そういうことが話題の中心となるんだよ。だからある意味、仏典の勉強をして、それが勉強や問答と結びついた世界に居るから、逆に仏典そのものが意味しているところまで考えが及ばないことが多いんだ。

でもさ、日本に居るとそんな環境じゃないでしょ。〝無常〟ってことを考える時でも、仏教全体のなかでの無常ってことを考えなくちゃいけなくなるんだよ。御参りに来る人たちにダルマキールティの話をしたってみんなチンプンカンプンだからね。

そうなると日本で〝無常〟ってことを考える時、もっと総合的に考えなくちゃいけないし、まずは自分の死ということを真剣に考えるんだね。〝刹那滅〟という無常の定義だって、一瞬一瞬差し迫って来る自分の死と合わせて考えるようになるんだよ。毎日の一瞬一瞬は取返しのつかない時間だってことをよく考える機会は日本で暮らしている時の方が多いんだよ。

〝無我〟ってことだってそうさ。日本で〝無我〟ってことを考える時は、この〝私〟というものはどうなっているのか、そういうことをゆったりとのんびり考えることができるんだ。ゆったり考えると仏教の教義だって、自分自身のことと合わせてゆっくり考えることができるんだよね。インドに居るとそういう時間がなかったり、周りの状況に流されたりしてしまうことがよくあるからね。」

やるべきことは少なくし、のんびり暮らす

「そもそも〝禅定〟という集中状態を保つためには、仕事というか、やらなくちゃいけないことは最小限でないといけないんだ。

良いものや高価なもの、そして名声や財産にばかり気を取られていたら、やらなくちゃいけないことが増えてしまうでしょ。だから色んなことを常に考えておかなくちゃいけなくなってね、忙しくなるし、忙しいと小さな大切なことを見落として失敗することも多くなっちゃうんだよね。

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仏教に関わる人にとって、〝のんびり過ごす〟ってことはとっても大切なんだ。

仕事を沢山して社会の役に立つことは大事なんだけど、仕事が沢山になってそれに心が惑わされてしまうのは、だめだよね。日本でこうしてのんびりとサカダワを過ごせるのは、御祈祷を申し込んで下さる人が居る御陰だけど、申し込んでくれたみなさんが、心静かに暮らしてくれるよう、我々はいつも祈っているよ。

〝お祭り〟っていうのはね、御釈迦さまが様々な活動を人々にしたその〝特別な時間〟に、もう一度ブッダの教えを思い出すためにあるんだよ。ブッダは絶対的な苦しみからの離脱ってことを説いているでしょ。だからそういうことに心を寄せて行くのが〝お祭り〟なんだよ。

サカダワを過ごした人も、今回の法要で色んな祈願の申し込みをしてくれた人も、こうして小さなことかもしれないし、大きな法要をやった訳でもないけれど、ブッダがその時を選んで何か特別なことをなされた、その〝特別な時間〟に普段とは少し違うことができた、少しいいことができたなと実感してもらい、それが達成したことを心の底から喜んでもらえるといいなと思うよ。

私たちの普段の生活は、大体がこの身体的な快楽を実現するための生存、サバイバルのために捧げられているんだ。行動・言動・考えること、この三つが殆ど我々の活動(業)なんだけど、それは大部分が自己愛や競争心、嫉妬といったネガティヴな心に支配されている訳だよね。」

小さな幸せを感じるための縁起と空の教え

「でもね、仏教では〝空〟とか〝無自性〟っていうだろ。これは、他のものに依存しないで自分勝手にひとりだけでは、幸せを始めすべてのものが成り立つことができないってことを説いている訳だよ。私たちの生活の幸福、不幸、そのすべてが、何らかの他のものに依存してできているんだよ。これが〝空〟の教えなんだ。

たとえば家族ってことを考えてもそうでしょ。

父、母、子、友だち、仕事仲間、社会ーーーーこれらは全部、他のものに依存しないで孤立して単独で存続することなんて、決してできないんだよ。

静かに落ち着いて考えれば、こういうことは考えられると思うけど、普段は忘れて不幸の原因をいっぱい作っちゃうよね。だから普段から、すべての小さなことが依存していることを忘れず、小さな幸せや楽しみ、喜びを見つけることが大切だよ。

そしてその原理が所謂〝縁起〟とか、〝空〟と言われる仏教のものの見方なんだよ。お祈りをしたり、お祈りをしてもらったりすることって、物じゃないから眼に見えないし、形にもならないけれど、そのことはまた必ず他のことと関係して何かの果実を結ぶんだよ。海の水だって、河に落ちた滴が集まってできたものでしょ。

だから私たちがやっている小さな善の方向に向かっていることは、こんな〝特別な時間〟にやっているからこそ、きっと大きな海の水のひとつの滴みたいになるんだよ。

日本に居てこんな天気のいいのんびりした時に、こんなことができたのは、とてもいい機会だし、心から楽しいことだなって思えるんだ。だから、今日の法要に関わった人も、そうじゃない人も、きっといいことをしたって思って欲しいのね。

法要の最後には、こういう素晴らしい教えを伝えて来てくれた、仏、菩薩、師から弟子、と伝わってきたすべての師資相承を心に描いて、捧げものをして、今回の法要が終わりになるんだよ。今年のサカダワの法要は明日の十五夜の満月でひとくぎりがつくけど、毎日毎日のこの貴重な人生の中で、みんなが心静かにこういう風に思えるといいなって思うよ。」

ブッダは衆生にとって最適な時を選び、最適な場所で、最適な弟子たちのためにその教えを説いたといわれている。現在のこの日本は世情が安定せず、人口も減少しつつある。チベットの僧侶たちが常に変わらない価値をもって、森のなかでひっそりとブッダの偉業の時に因んだ〝特別な時〟を過ごしている。

これらの行事がどれだけ人の役に立っているのは分からない。しかし境内の隅で日向ぼっこをしながら語ってくれた、ゲン・チャンパのサカダワの感想は、我々すべてにとって、かけがえのないとても大切なことを教えてくれているような気がしてならない。