作成日: 2009-08-27 最終更新日: 2016-09-30 作成:野村 正次郎

B2 自派の学説規定を若干分類した説明

B2 自派の学説の規定を若干分類した説明には二つ。C1通論・C2各論

C1 通論

無比なる説法者、釈迦王こそは、初めに最勝菩提心を御発心なさり、中間には三阿僧祇劫の間資糧を御積みになり、最終的には金剛座の頂点で現等覚なさり、ベナレスの地で五賢従者に対して四諦法輪を転ぜられた。その後、霊鷲山で、第二の仏語たる無相法輪を転ぜられたのである。その後ヴァイシャーリーなどで善く区別された法輪を広大に転ぜられ、外教の六師等の悪説をすべて圧倒し、利楽の源泉たる、仏陀の教説という宝を広く普及なされたのである。

その後註釈者たちが三法輪の密意を各々註釈したことにより、四種類の学説論者が現れたのである。そのうち対象実在論の二派(毘婆沙部・経量部)は初転法輪に追従し、無自性論者(中観派)は中転法輪に追従し、瑜伽行派(唯識派)は後転法輪に追従したことにより、〔それぞれ異なった〕基体・道・果という三つの規定を宣布したのである。

我々の説法者たる釈尊に追従している学説論者には、毘婆沙部・経量部の〔小乗の〕二派、中観派・唯識派の〔大乗〕二派、という合計四派が有り、これが定数である。何故ならば、それ以外の「第五番目の学説論者」とか「〔声聞乗・独覚乗・菩薩乗の〕三乗とは別な第四の乗」といったものは有り得ないと言われているからである。『金剛心註』で「仏教徒のなかに、第四番目のもの(乗)とか第五番目のもの(学派)〔が有るという考え方〕は、牟尼の密意ではないのである」と説かれている通りである。

自立派より下位の学派は、帰謬派によって計量されれば常断の二辺に陥っていることになるが、各自の教義上では、〔自分たちの学派こそが〕中観派であると主張している。何故ならば〔彼らは〕常断の二辺を離れた「中」を承認していると思い込んでいるからである。

更に四学説論者には各々異なった常断の辺を断じる形式が有る。すなわち、毘婆沙師は「結果が生じる時、原因が滅している、ということによって常辺を断じ、原因の最終段階に結果は生じる、ということによって断辺を断じている」と述べている。経量部は「諸有為は相続が途絶えなく働いているものである、ということによって断辺を断じており、〔それらは〕刹那滅である、ということによって常辺を離れている」と主張している。唯識派は「遍計所執は真実として成立していない、ということによって常辺を断じており、依他起は真実として成立している、ということによって断辺を断じている」と述べている。中観派は「一切法は言説として有る、ということによって断辺を離れており、〔一切法は〕勝義として無い、ということによって常辺を離れている」と考えているのである。

また、それぞれ上位の学説はそれぞれ下位の独自な学説を否定しているけれども、下位のものの理解は、上位のものの理解のための非常に勝れた方便と思われる。したがって上位の学説こそが最高であるとして下位の学説を嫌悪してはならないのである。

したがって、宣布された四法印を承認する人、これが仏教学説論者の定義であるとされるのである。四法印は有る。すなわち「一切の有為は無常である」「一切の有漏は苦である」「一切法は無我である」「涅槃は寂静である」〔という四つ〕である。もしも「犢子部は人我を承認しているので、仏教学説論者でなくなってしまう」と言うのならば、そのような過失は無い。何故ならば、彼らが承認する「我」とは独立自存の実体有たる我のことであるが、四法印の中の「無我」とは常住・単一・自在なものに関する空という無我のことを指しており、前者については五つの正量部も承認するからである。

C2 各論

C2の各論には、D1 毘婆沙部の学説D2 経量部の学説D3 唯識派の学説D4 無自性論者の学説との四つが有る。