2011.01.28

月をながめて

「…今日は、泣きそうで大変だった」

それは昨年の11月のこと。

ゲンロサンの来日に際し、僧侶の方たちは数日間東京に出張して講演や説法を行われた。ちょうどその日は、早稲田大学で学生を相手に話をさせてもらった帰りだった。

新宿駅から宿に戻る道すがら、ゲンチャンパと競歩のように早歩きを競っていたので、私たちは他の人たちより随分先きを歩いていた。私が音をあげて歩調を緩めると、ゲンチャンパも同じように歩調を緩め、そして先の言葉を口にされた。

「涙をこらえるのに、必死だったよ」

そうゲンチャンパから言われたとき、最初何のことだかわからなかった。ゲンはいつも陽気だし、その日もみなと楽しそうにされていたはずである。

怪訝そうな顔をしていると、ゲンは言葉を継いで、

「今日、初めて法王にお会いしたときのことを話しただろ?そしたら話をしているうちに、その時の情景を思い出して、涙があふれそうになったんだ」

その日の講義の中で、ゲンチャンパとアボさんは自分たちがチベットからインドに亡命した時の経緯を語られた。少々距離があるものの、二人はともにチベット東部、カム地方の出身。若き日に強い志を抱き、故郷を捨ててインドに亡命された人たちである。

チベットでの生活。インドまでの長き道のり。そして法王との初めての謁見…。それらの記憶全てが押し寄せて、ゲンの目頭を熱くしたのだろう。

先日、奈良で行われた法話会の中で、

「修習とは、ある対象に心が慣れることだ」

とゲンは語られた。

「いま私たちは家にいないね?でも、自分の家のどこどこに何があるか、まざまざと思い浮かべることができることが出来る。それは私たちの心がその対象に慣れているからだ」

『慣れる』というのは、とても強いことだと思う。

ゲンチャンパやアボさんに限らず、多くのチベット人たちはダライ・ラマ法王のことを毎日、強く祈願する。そして法王を恋い慕うその想いに心が慣れて、深く深くしみ込んでいる。

前にゲンチャンパに、

「チベット人たちは満月の中に、法王のお顔が見えるというけど、見たことあるかい?」

と聞かれた。

月の中に法王のお顔を見るチベットの人たち。次の満月の夜、空が晴れたら月をながめてみよう。
大学の芝生にて

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