2016.11.23

天空に炊き上げられる神々への狼煙

チベットの開運焼香供養
野村正次郎

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地球上で最も標高の高い土地に住むチベットの人たちの朝は、神々に対して捧げる焼香の煙と共にはじまる。一切衆生利益を祈り炊かれるその狼煙は、神々の棲む天空へと届き、彼らをそこから地上に呼び寄せている。ヒマラヤ杉や高山の薬草・香草からなるその香りは、神々を降臨させ、土地を浄め、人々を神々と共に在らしめている。

「焼香供養」「淨煙供養」(サンソル)はチベット文化圏のすべてで僧俗を問わず広く普及している神々に対する供養の儀式である。ダライ・ラマ法王の誕生日や結婚式、正月などの祝日をはじめ、様々な機会に焼香供養は行われる。重要なイベントや仕事のはじまり、旅立ちの前など、チベットの家庭では家の前に焼香供養をするための炉を作り毎日そこで「サン」を炊くだけではなく、山の上、寺社の屋上、家屋の屋上といった天空に近い場所で、煙たちこめる焼香供養がおこなれる。

サンソルの起源がインド伝来のものかどうかは不明であるが、『秘密集会タントラ』では焼香には三種類の香が勧めら、また経典のなかにもマガダ国のバドゥリ王妃が釈尊を招聘する際に、自ら宮殿の屋上で芳しい香りの煙を炊き迎えたという逸話も残っているので、こうした供養が仏教の伝統にあることは確かである。しかしチベットで焼香供養が広がったのは、仏教伝来以前からのものであり、チベットに仏教が伝来する以前に、シャンシュンの地からチベットにポン教の開祖トンパ・シェーラプが、このような焼香供養の方法をチベット人に伝えたという説もあり、タルチョーという五色の祈祷旗と同様チベット古来の古い神々との交流のひとつの方法である。文献上は、八世紀にチベットに密教を伝えたインドの大行者パドマサンバヴァがチベット初の僧院サムイェー僧院で、仏教の教義に乗っ取った焼香供養の儀軌の次第をといたことが確認される。後にニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派といったチベット仏教の各宗派でそれぞれの次第が整備されているが、それらの内容を簡単に紹介しておこう。

まずは三宝帰依・発心、四無量心の後、まずは行者は本尊怖畏金剛尊へと生起し、供物を加持し、諸本尊の加持力をかりて、外側の供物および内側の供物たる甘露を神々たちが召し上がる供物へと変化させる。

次に、諸尊の勧請が行われる。まずは清浄法身宮より賢劫千仏、受用身たる執金剛、化身たる釈迦牟尼如来、弥勒菩薩をはじめとする八大菩薩、十六羅漢、龍樹などのインドの賢者、八十の密教行者たち、パドマサンバヴァ、アティシャをはじめとするインドからチベットへ渡った祖師たち、ゲルク派の宗祖開祖ジェ・ツォンカパをはじめとするゲルク派の師資相承、ダーキニー天の住処よりはマルパ翻訳官をはじめとするカギュ派の師資相承、ニンマ派の祖師たち、サキャ派の祖師たち、菩提道次第相承の祖師たち、歴代のダライ・ラマ、パンチェン・ラマなど、釈尊からはじまり自分に至るまでの師資相承の伝灯を確認するものでもある。

次に時輪、へールカ、秘密集会・勝楽・怖畏金剛・呼金剛などといった無上瑜伽タントラの本尊たち、金剛界三十七尊といった瑜伽タントラの本尊たち、大悲胎蔵曼荼羅の大日如来を主とする行タントラの本尊たち、如意輪観音などをはじめとする作タントラの本尊たちといった密教の本尊が招請される。それに引き続き大黒天、毘沙門天、夜摩法王、吉祥天女、八部衆などを始めとする護法尊たちが招請される。これらはそれぞれの尊格の名前が読み上げられ「本日この空間に降臨し給え」と呼びかけられる。

諸尊たちが現前の空間に降臨すると次に先ほど浄化された加持された供物が捧げられ、まず降臨した諸尊たちは、浄められ、供物を受け取ったと観想した後に、その供物の余りは土地神や龍神たちに施される。そもそも「サン」とは「浄められたもの」という浄化するという動詞の完了形で「サンを炊く」というのは、「浄められたものを炊く」という意味であり、「サンソル」というものは「浄められたもので祈願をする」という意味である。

諸尊たちに供物を捧げ浄化されたら、引き続き「セルケム」と言われる黄金の飲料を諸尊に捧げる。「セルケム」は、米や麦からなる酒、もしくは代用として濃く煮出したお茶などを諸尊たちが飲む黄金の甘露水へと加持したものであるが、それを諸尊たちに捧げることによって、諸尊の息災・増益・敬愛・調伏という四種類の活動(業)を要請し、現世利益および悉地をもとめて行われる。

次に諸尊の尊格の名が再び呼ばれ、「○○○○よ、護り本尊となり給え。こうして護り本尊を供養すれば、太陽と天空が共にあるが如く、本尊は人と離れることなきように」と神々と自分たちとが決して離れることなく、常に共にあることが祈られるのである。また諸尊の尊格の名とともに「○○○○よ、本日ここに運気となり給え」という開運招福の祈願が行われ、一連の祈願は終わる。そして更には「○○○○に吉祥あれ」という慶賀の讃歌が唱えられ、善の廻向とともに一連の儀式は終わる。

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サンソルは現在も僧俗を問わず、チベット全域ではっきりと眼に見える伝統文化として継承されているものであるが、大きく分けて一般の個人や家庭で行われる簡易な供養である「ゲルサン」と出家した僧侶たちを招いたり、地域住民が集まって法要として行われる「チサン」との二種類があり、祈りの内容と儀式の内容は同じようであるが、法要として行われる場合には、このような一連の儀式と観想を完全な形で行うが、個人レベルで行う場合には、儀軌の経本をすべて唱えることはないが、心のなかでこのような内容を観想するのである。

チベットの家屋のその多くで屋外にサンクンと呼ばれるサンを炊くための炉をつくり、そこで早朝サンを炊く。またそれぞれの家庭から近い山の上や摩尼車などを配置した摩尼小屋の近くに炉が作られ、早朝日常的にサンが炊かれる。地域住民が集まって祝い事や縁儀担ぎなどで行われる場合には、最後に一同は円陣を組んで「キキ・ソソ・ラゲルロー」(神々に勝利あれ!)と掛け声をかける。同時にツァンパからできた「チェマ」という粉末状のものを天に向かって巻いたり、紙に「風の馬」(ルンタ)と呼ばれる運気を運ぶ動物を印刷したものを天空に向かって投げ、風で飛ばすということも行われる。多くは祝い事などの特別な時に行われるので、サンを炊き神々を供養し、神々の祝福を受けたら、それに続き、歌や踊りや酒宴が続くこともともよくある。また同時にタルチョーを新調したり、厄災消除、開運招福の祈りが捧げられている。

サンソルの伝統は、古代チベットの民間信仰から発展し、仏教の伝来と共に、ひろくチベットの人たちに普及したものである。チベット文化圏を旅行したことがある者ならば誰にでも眼にするチベット固有の文化はすべての生きとしいけるものの安寧を願い、天空に狼煙をあげ、神々を降臨させ、供物を捧げ、神々と決して離れないでいることを願っている。「天空の国チベット」と呼ばれる山の上に住むチベットの人たちのこうしたあり方は、海の近くに住む私たち日本人に多くのことを教えてくれている。

 

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