作成日: 2016-11-14 最終更新日: 2016-11-19 作成:野村 正次郎

白壁を塗り仏たちの降臨を待つ

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チベット暦9月22日は「ラバブ・ドゥーチェン」(降臨大祭)と呼ばれ、釈尊が三十三天から再度この地上に戻ってきたことを記念している釈尊の四大節のひとつである。この釈尊のエピソードは日本でも古くから「三道宝階降下」「従忉利天降下」「従三十三天降下」として知られている有名なエピソードであるが、我が国ではこの三道宝階降下を縁日とする大祭は行われてない。弊会では2004年以来日本別院にても「降臨大祭」として毎年この大祭を祝い、釈尊に関係する特別法要や法話会を行なってきたが、改めてこの大祭のエピソードを紹介してみたい。

『道次第師資相承行状記』の三道宝階降下

釈尊が三十三天にて摩耶夫人のために説法をされ、三道宝階を降下なされたというエピソードは、日本にも古くから伝わり、漢訳の大蔵経に収められている『維摩経』『華厳経』『雑一阿含経』『根本説一切有部毘那耶破僧事』『摩訶摩耶經』などにも記載があり有名なエピソードである。また釈尊が天界から降臨されたサンカーシャの地は法顕や三蔵法師玄奘も訪れた八大仏跡のひとつであり、現在も仏跡巡礼コースのひとつとして非常に有名である。

三道宝階降下の故事については、チベット大蔵経のなかにも数え切れないほどの多くの記述があるが、ここではまずダライ・ラマ8世のヨンジンを務めたツェチョクリン・イシー・ゲルツェン(1737-1793)の『道次第師資相承行状記』に簡単に基づいてみてみよう。

釈尊は御年41歳、鉄子の歳に、三十三天(忉利天)に転生していた母君マーヤー夫人を摂取しようとお考えになり、また他にも無数の諸天に善根が有ること観じ給われ、三十三天へと赴かれ、九十日間の夏安居を歓喜園にて、シャーリプトラ、マハーカーシャパ、スブーティなどの8000の阿羅漢やアーナンダたちと過ごされる。この夏安居の時に悪趣清浄タントラや勝軍宝幢荘厳陀羅尼、縁起心髄、仏頂尊勝陀羅尼、不動明王根本タントラなどが説かれた。

釈尊が三十三天に滞在されていた時に、この閻浮提世界では目連尊者(マハーモッガラーナ)がコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー)にて夏安居を行っていたが、一般人にとっては釈尊は所在不明となっていたので、ビンビサーラ王やプラセーナジット王や四衆たちは目連尊者にその所在を尋ねると、目連は釈尊が現在天界に居らっしゃると答えた。

釈尊の説法を聞けなくて悲しい思いをしていた王たちは、夏安居も終わりに近づいてきたので目連に、「もう世尊にお会いできなくなって大変久しくなりました。勧請の言葉を託しますので、世尊が再びお戻りになられるようお伝えください」と頼むこととなった。伝言を預かった目連は瞬時に天界へ行き伝言を伝え「閻浮提の衆生たちは天界へと昇ることなど不可能です。しかし天界の衆生たちは閻浮提へ降りることが出来ます。ですのでどうか閻浮提へとお戻りになられて頂きたい」と口添えをした。彼らの伝言を聞いた釈尊は目連に「一週間後待てば、私はサムカーシャの街のアパジャリの林のウドゥンバラ樹の前に行きます、そう伝えてきなさい」と命じられたのである。そこで目連は舎衛城に戻り、人々に釈尊からの伝言を伝え、再び三十三天に戻ったが、釈尊の降下を聞いた王や弟子たちは、大変喜び、サムカーシャを清掃し、供物などを準備し、その場所を三十三天の歓喜園に似せて正厳し準備をすることとなった。

一週間後の9月22日に釈尊は三十三天より歩いて閻浮提に降りようとすると、帝釈天はビシュバカルマンに命じて三列よりなる階段を造られた。その中央の階段はヴァイドゥーリヤ(瑠璃)で出来た階段で、釈尊と弟子たちがそれを使うこととなった。左側の階段は黄金で作られた階段で、そこは梵天と色界の神々が宝石でできた団扇で釈尊を扇ぎ先導した。右側の階段は、水晶で作られた階段で、それは帝釈天が欲界の神々とともに釈尊に傘をさして降下することとなった。

釈尊はビシュバカルマンのために半分は歩いてその階段を降りられたが、不信を退けるために半分は神通にて降下された。釈尊は神々とともに閻浮提に向かったのであるが、12ヨージャナ以下に近くと、人間の匂いがして神々には堪え難くなったので、栴檀の香りで神々たちを覆い給われた。また人間の男性が天女を見たり、人間の女性が天男を見たりすれば、死んでしまうので、男性は天男だけが見えるように、女性は天女だけが見えるようになされ、光有城に降下され、帝釈天が作った玉座につかれ、そこで王たちは歓迎し、ガンダルヴァたちが琵琶を美しく奏でたので、声聞たちも身震いすることとなった。

以上が『道次第師資相承行状記』でまとめられている記述であり、ここでは釈尊不在の時に閻浮提では最初の栴檀で出来た仏像が作られ、その仏像を釈尊自身が開眼供養し、後に中国に伝わったものがチベットへ招来され、現在のジョウォシャキャムニ像になったというエピソードは記載されていないが、チベット仏教圏では三道宝階降下と関連する重要な伝承である。

またこの釈尊が再びこの地上に神々を連れて降臨されたことに基づいて、釈尊の神通力のすごさに六師外道たちが嫉妬しはじめたことや、そのことがきっかけとなり後に「舎衛城の神変」が起こったという他の故事とも関係して大変有名な出来事でもある。

チベット仏教圏での降臨大祭

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チベットではこの釈尊の縁日に基づいて、チベット暦9月になると僧院の外壁の塗替工事がはじまる。

チベット圏の建築は通常石を積み上げたものに漆喰に似た白い塗料を塗っているが、これは一年も経つと汚れが目立つし次第にだめになるので、チベットの僧院ではこの時期に塗り替えをいまも行なっている。同時に通常チベットの窓枠は黒く塗られているが、その黒い枠も塗り替えを行うのもこの時期である。

これは釈尊が再びこの地上に戻ってこられる前に当時の王や弟子たちがサムカーシャの街を綺麗に掃除をして、天界のように磨き上げたことに由来している。

降臨大祭の当日であるチベットの人たちは特に9月22日には通常よりも早く起床し、家を綺麗に掃除し、仏壇を荘厳し、バター灯明用のバターや線香を手に近隣の僧院を参拝しにいく。また高い山の上に行きサンを炊いたりするのである。

降臨大祭に釈尊へ想いを寄せる

チベット文化圏では釈尊の四大節として神変大祈願祭・サカダワ大祭・転法輪祭というこの三つは、釈尊の降誕・成道・転法輪・涅槃などの釈尊の重大に関係した日であり、日本でも誕生会・成道会・涅槃会というのがあるが、チベットではこの降臨祭についてだけ何故そんなに重要なのか、という疑問を抱く人がいるかも知れない。実際私もすべての仏教徒にとって何故そこまで重要なのか最初は分からなかったので、故ケンスル・リンポチェに伺ったことがある。その時師が教えてくださったのは、次のようなものである。

そもそもブッダの説法というのはどんな時にでもどんな場所でも、私たちが心を清らかにして耳を傾ければ聞こえてきます。特定の時にしかブッダの説法がなされているのではなく、ブッダのはどのような瞬間であってもいまも説法をしつづけています。しかし私たちは心が汚れており、ブッダの説法を聞くことができません。

釈尊は35歳で成道の相を示された時も、そもそも仏法を説くのを躊躇なされた言われている「甚深で広大で無為なる光明・・・」という偈も無我空性を説いたもので、本当の初転法輪はこの偈にあります。しかし一般的には梵天勧請によって四聖諦をはじめとする転法輪を行われました。その後人間世界には、竹林精舎や祇園精舎などの弟子たちの僧院も既に成立し、三十三天に行かれた時点では、すでに説くべき教えはすべてこの人間たちの住んでいる閻浮提で説き終えていたのです。

ですので、釈尊はそもそも人間世界にはわざわざお戻りになられる必要はそれほどなかったのですが、人間たちは釈尊が居られなくなっただけで大変悲しみ、目連尊者にお願いしてわざわざ戻って欲しい告げ、釈尊が戻られたからこそ、その後人間世界の霊鷲山で第二転法輪、第三転法輪を行い、また密教の教えも人間世界で説かれることとなったのです。

もしも三十三天から再び戻ってこられなければ、その後81歳の時に涅槃の相を示されるまでの40年間の説法をされることはなかったのである。いま私たちが触れることのできる般若経をはじめとする大部分の大乗の経典の教えはこの三十三天からお戻りなられた後に説かれたものであり、だからこそ人間世界においてはこの釈尊が天界から再臨したという降臨の日は、私たちの閻浮提世界に住んでいる弟子たちにとってはこの釈尊が再臨したことは極めて有り難く重要なのである。だからこそこの降臨祭は私たちすべての仏教徒にとって重要なものなのです。私たちがいまもこのお祭りをすることは、自分たちが釈尊の弟子であることを再度思い出し、釈尊の恩を追念するのにちょうどいいんですよ。

仏伝を学ぶための姿勢

釈尊の伝記には様々なエピソードがあり、ひろく仏教国のなかでも統一されているわけではない。釈尊の伝記にある故事の日付やその故事の時の釈尊の年齢なども様々に異なった伝承がある。また大乗仏教の祖と言われる龍樹の伝記などについては漢訳に伝わるものとチベットに伝わるものも非常に異なっている。現代の歴史学や仏教学ではそれらを唯物史観で捉え「伝説」「神話」として排除する傾向も強い。

しかし釈尊の伝記のなかでの異同や大乗非仏説などといった現代人が仏教や仏教的歴史観を倦厭するような問題はいまにはじまったことでなく、大乗非仏説に対する批判は古くから伝統的な見解として確立したものがあるのであり、またチベットのようにカーラチャクラタントラに基づく暦学が発展した地においては、釈尊の伝記に登場する故事の年代の異同については昔から多くの説があり問題があったことは確かなのである。

しかしながら彼らが年代の異同や非現実的で神話的なエピソードを受け入れることが出来たのには明確な理由がある。それは様々な学説や思想の異同や差異を強調するのではなく、共通したメッセージ、教えとは何か、それらのすべてのエピソードや異同には意味がある、ということを考え、それらをひとつの体系のなかでの分化された枝葉として理解しようとしたその姿勢をこそ理解するべきではないだろうか。

ツェチョクリン・イシー・ゲルツェン(1737-1793)の『道次第師資相承行状記』では、釈尊の伝記の異同をいったいどのように学ぶべきなのか、ということについて次のように述べている。

菩提道次第を修心する人々は、釈尊の降誕の年代等について、多くの学者たちの諸説が異なっているという不快に感じる必要はない。釈尊の降誕や成仏がどの年代においてであろうとも、大悲を有する釈尊ご自身は、我々濁世のか弱い衆生たちのために兜率天からこの世界へ降臨なされ、受胎され、誕生され、遊戯なされ、王宮を出て、苦行なさり、菩提樹もとにて魔を退けられ、成仏されるという行状を示され、これらの良き行状のそれぞれが、無数の所化を成熟させ、解脱なされたのであり、諸天人たちによって無量の供養が捧げられ、無限の化身をおしめしになられたのである、という信敬を修習するべきなのである。〔『縁起讃』でも〕「すべての活動のなかでも説法の業こそ最勝のものである。そのなかでもまさにこれこそによってこそ賢者はここから仏陀を追想すべきなのである」と説かれているように、あらゆる転法輪をなされたその活動はすべて、ただひたすら所化を教化するというこの目的でなされたものなのである。

釈尊が三十三天からこの地上に戻ってきたとこの降臨大祭は、エピソードとしては現代日本の人々には受け入れがたいのかも知れない。しかしながらこのエピソードが人類の歴史においていったいどのような意味があるのか、どれだけの人を動かしてきたのか、ということを考えると決して無意味な盲信であると片付けてしまうことはできないであろう。事実この釈尊の軌跡がひろく仏教文化圏に与えた影響は多大であり、仏像の起源ともなったこのエピソードは世界の文化史的にみても極めて重要である。

日本別院ではチベット仏教の伝統に従って、釈尊を讃える讃を唱えるなどの法要が行われる、それは決して伝統であるからではなく、この日が特別な日であるからである。釈尊が三道宝階降下の相を示したそられるこの機会にあらためて仏伝や仏教書を紐解き、それらが一体どのようなものであったのか、ということに心を巡らせるのは、無意味なことではないだろう。

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釈尊降臨大祭