作成日: 2006-11-05 最終更新日: 2016-11-08 作成:事務局

諸法実相

経典では「如来が出現しようがしまいが、諸法の法性は存続している」と説かれています。

このように法性というのは、常に有るものです。ここに諸法は様々に現象して、それはまた認識されていますが、それらの法の本質 実相、それは常に存在し続けています。どんなものでもそれが有れば、その実相は必ずあるでしょう。存在する限りにおいて、その有り方が有る筈です。

どう有るのかと言えば、自性に関して空であるという有り方で有るのです。つまり縁起して存在しているのです。縁起することで存在しているからこそ、依存したり関係することなしに成立しているものは無いのです。相互依存関係によって成立するものであるから、依存したり関係しないで、成立する事が無いというのがそれがこの法性となるのです。

諸法実相に対する誤解

法性が常に有るのなら、放って置けばいいのであって、それを何故わざわざとりたてて説明しなくてはいけないのでしょうか。

我々がその法性に対して無知である事が問題なのです。貪瞋等の煩悩三毒は、我々の問題の源です。その中でも貪瞋の二つは、我々の日常の問題の源です。貪瞋によって問題が起こり望みがかなわないのです。

一般に貪瞋とは“貪”とは更に順縁を受容し、順縁を望む心です。あくまでも一般論ですが、順縁を再度得たいという追求心は貪欲によってもたらされています。瞋恚は逆縁を除く心です。ここで問題があります。知人の心理学者によれば、彼らは感情を色々分析してますが、我々が怒りの感情を抱く時、その対象の嫌なところが我々には見えますよね。しかしその我々に見えている嫌だと思っているものの、その九割は想像の産物だそうです。心で作り出したものです。

対象の側には不快に思う、ほんの少しの部分に対してそれが大きな欠点であると、非如理作為分別(※)が見做して百パーセントよくない部分として見てそこに怒りが起こるのです。

同様に貪欲の対象も良い側面が有るのは有りますが、その部分が百パーセント良いと見做して、そこに執着する貪欲が起こります。このように貪欲・瞋恚の思いは、対象の真相は分からずに事実とは異なるものを過度に想像しています。

これはあくまでも科学者の話ですよ。これは実験の結果です。仏教もこれと同じ意見です。

業と煩悩が尽きて解脱する
業と煩悩は分別より起こる

非如理作為(※)の分別より、貪・瞋が起こると有りましたね。

科学者の話はこれと同じです。貪瞋等の知が起こる時、貪欲は順縁を追い求め、瞋恚は逆縁を除こうとします。これは必要なことですが、しかしこうして起きた知は、対象の実相とは異なる快不快の側面を見ています。その結果、 貪瞋が起こるのです。ですから、この認識は誤っています。対象の実相とは異なった、別のものを把えています。では実相と異なるのは何故なのでしょうか?

それは無明が原因なのです。じゃあ無明がどのように原因となっているかと言うと、貪欲や瞋恚の対象が我々に顕れている時に、対象自身の側で有るかの如く現れていますよね。

自性によって成立するかの如く我々には見えています。そのように見える上に、そのもの自身で良い価値があるかに見えるのであり、そのもの自身で悪い価値があるかに見えていますよね。我々はそこに現れる通り、対象自身の良し悪しを捉えるので、非如理作為(※)の分別によって増益される事になるのです。

“業と煩悩は分別より 即ち貪瞋は、非如理作為分別(※)より起こるのです。
“それらは戯論より”
即ちこの分別の増益の原因は真実把握の戯論にあるのです。
対象それ自身の側から有るかの如く現れており、その顕れ通りに思い込むのが
“無明”と謂われるものです。これは先ほども言った“有染汚の慧”となっているのです。そう考えると、法性空性(※)というのは、放って置く訳にはいきませんよね。法性空性(※)が分からないので、貪欲や瞋恚が起こるのです。

貪欲や瞋恚のせいで‥‥この世界を見てください。政治家であれ何であれ、この世界の問題はすべて家庭内の問題、社会問題、国家間の問題。これはすべて、それはすべて考え方に由来するものじゃないですか。貪瞋等に由来してますよね。貪欲・瞋恚・我慢・嫉妬・競争心・恨み・欲望、これらは貪欲に由来します。

自分は最高でなければならない。自分が一番大切である。それを脅かす者が現れると嫉妬心が起こり、競争心が起こります。相手に対する嫌悪感、そこから恨みが生まれ怒りが起きます。こうなってはいますが、その根源が何処にあるかと言えば、心を制御できないからなのです。心を制御できなくさせるのが、貪瞋等であるのは明かです。

貪瞋等が起こるのは、非如理作意(※)によるのであり、この非如理作意(※)の原因が、対象を真実であると思い込む。無明であることは明らかなのです。ですので空性に対する誤った知が貪瞋を起こすのです。

貪瞋を無くすための方法として、誤ったものを捉える知を退ける方法が有れば、それを実行しなくてはなりませんよね。誤ったものを捉える知を退ける方法が無ければ、仕方ないです。しかし誤った知を退ける方法が有るのならする必要があります。何故かというと貪瞋が我々に問題をもたらすからです。

空性理解こそが煩悩を退ける

貪は順縁を再度得ようとし、瞋は逆縁を退けようとし、この働きを考えるとです。
貪瞋のない場合には、そのような作用が起こらず実相が分かる知によって、この作用を止める事が可能です。

例えば 慈悲心は、より様々な順縁を集めれます。執着心によって敵を味方にするのは難しいですが、慈悲が有れば可能ですよね。このように慈悲は貪欲よりも順縁を多く集めれるのです。

逆縁を取り除く場合も同じで、慈悲で逆縁を退けることもできます。

これは例えば密教では、“瞋恚転道法”というのが有ります。忿怒尊の観想で用いるものです。この場合の“瞋恚”は、慈悲を動機としています。ですので慈悲は順縁も集まれるし、逆縁も退けられますよね。そうすれば 貪欲や瞋恚の働きに期待しなくても、貪瞋がたとえ意味有る活動をしたとしても、同じ活動は別の心で、つまり誤った心でなくても同じ事が出来るのです。つまり貪瞋の活動は、他の心で置き換える事ができるのです。じゃないと 煩悩を断じた阿羅漢は生活できなくなりますよ。煩悩を断じた阿羅漢にも人生は有りますからね。

良いものは得ますし、悪いものは捨てますよね。清浄地の菩薩聖者も、貪瞋は既に無くなっていますが、だからと言って、腑抜けな訳じゃないでしょ。彼らも良し悪しの区別はしますよね。

阿羅漢や菩薩も、善悪の区別はします。そして善なるものを採用し、悪しきものを却下しますよね。ですが貪瞋は起こしませんよね。善いものは善いとするだけで、悪いものは悪いとし過剰反応はしません。これは善し悪しを過剰評価し、反応する貪瞋とは違うからです。良くないものや捨てるべきものを見て、それが絶対的に不快だとし、それを望まないから 過剰反応し、怒ったり恨んだりする事はしません。

ですから 空性というこれは、“空性はごちゃごちゃとややこしいので放っておこう”と言ってはいられませんね。空性を知るべきじゃないですか。もし貪欲や瞋恚が無害なだったら、空性なんて要りませんよね。貪欲や瞋恚は有害なもので、煩悩も有害なものなのです。だからこそ何としてでも空を理解するべきなのであり、無視する訳には
いかないんです。