Last Updated: 2021.12.26
HIROSHIMA INTERANATIONAL PEACE SUMMIT 2006

和解、そして平和構築

SESSION III - Reconciliation and Peace-Building
デズモンド・ツツ大主教を囲んで
m0311-124

ツツ大主教による基調講演

こんにちは、私はデズモンド・ツツです。みなさまが私のことをご存知であれば嬉しく思います。数年前サンフランシスコを訪れた時、ある女性が興奮して私の所に駆け寄り、「こんにちは、マンデラ大主教」と言ってきたことがありました。

さて、この度は広島国際平和会議にお招き下さいまして、誠に有りがたく光栄に存じます。長い亡命生活にもかかわらず、喜びと希望に満ちあふれ、静謐な心を保たれているダライ・ラマ法王、そして、北アイルランドの和平のために尽力され、今では子どもたちの未来のために情熱を傾けておられるベティ・ウィリアムズさん、このおふたりとご一緒できますことを大変名誉に思います。

私たちは広島で被爆された方々の並外れた精神に深く感銘を受けております。以前にここに参りました時には、被爆者の方々にもお会いしました。悲惨な暴虐を生き延びた被爆者の方々は、怒りや恨みに燃えることもなく、寛大なる赦しの精神に満ちあふれていました。広島平和記念資料館も見学させていただきましたが、大変感銘を受けました。ご存知の通り、広島の人々は「誰に対しても、いかなる土地においても、このような過ちは二度と繰り返しません」と訴えているのです。

広島のみなさまは大変に素晴らしい模範を私たちに示してこられました。そうした広島の地に私たちがやって来て、平和や和解について語るのは何ともおこがましい話かも知れません。私たちは広島と長崎の偉大なる人々のために、神に感謝したいと思います。神はみなさまが成し遂げたことを御覧になり微笑まれているでしょう。

アパルトヘイトへの勝利

では、ここから南アフリカで起こってきた出来事についてお話ししましょう。

南アフリカでアパルトヘイト制度が撤廃された時、この国では民族間の大量虐殺が起こるのではないかと多くの人が懸念しました。けれども、実際にそれは起こりませんでした。世界が眼にしたのは、南アフリカのすべての民族の人々が投票のために並ぶ長蛇の列だったのです。アパルトヘイトの崩壊を受けて一九九四年四月二十七日という記念すべき日に、南アフリカの何百万人もの国民が初めて投票を行ないました。この素晴らしい日は、歴史として永遠に私たちの記憶に刻まれるでしょう。

こうして無事に選挙が行われると、ある人々はこう言いました。「黒人主導の政府が力を得れば、今に復讐と報復の恐ろしい連鎖が繰り広げられるに違いない」と。ですが、これも実際には起こらず、その代わりに、「南アフリカ真実和解委員会」が結成される運びとなりました。この国で最もひどい仕打ちを受けた被害者が“赦し”と“寛容”の精神を示したわけですから、世界はこれに驚愕しました。

私たちがアパルトヘイトの恐怖に打ち勝つことができましたのも、ひとえに国際社会からのご支援のおかげと存じます。この日本にも強力な反アパルトヘイト運動のグループがありました。この場をお借りして、私の何百万人もの同胞に代わってお礼を申し上げます。私たちの自由のために援助して下さり、ありがとうございました。

過去の悲劇に正しく向き合う

さて過去に起こった悲劇に私たちはどう立ち向かうべきか、この問題について考えてみたいと思います。もし個人と個人との間で何か良くない出来事が起こったならば、その忌まわしい出来事に対処する方法は三つあります。たとえば、これはよくあることですが、夫婦間で争いが起こった場合、人はその三つの選択肢のうちのいずれかひとつを選択することになるでしょう。

まず第一の選択肢は、まるで何もなかったかのように振舞うということです。夫婦喧嘩の次の日に、夫はチョコレートの箱や花を妻のためにお土産に買って帰って、前の日には何もなかったかのように振舞おうとします。これが“過去のことは水に流しましょう”というやり方です。

しかしながら、過去のことは、そう簡単に水に流せるものではありません。過去は我々にまとわりついてくるものです。個人の場合でしたら、苦い経験を忘れようと努めれば、一時的にそれを意識から表面的には消し去ることができるかも知れません。ですが、それは潜在意識の下に潜り込んで行くでしょう。そして、ある時になってその経験が亡霊のように立ち現れるのです。しかし、人々は何とかして過去の経験を忘れようとします。彼らがよく口にするのは「もう忘れましょう」という台詞です。

第二の方法は、これは実際の場面でよく採用されている方法ですが、“やられたらやり返せ”という考えで、“相手に報復すること”です。いわゆる「目には目を。歯には歯を」です。これは誰かから攻撃を受けた場合に、よく採用されています。

国家も個人の場合と同じような方法を取ろうとしています。たとえば国家が痛ましい過去を背負っている場合、“過去のことは忘れよう”などと言って、大赦を行なおうとするのです。これは一種の“集団での記憶喪失”といえるでしょう。しかし、やがて彼らは気付くでしょう。忌まわしい過去を消し去ることはできないのです。過去はいずれ立ち現れ、我々に取り憑くものなのです。

ジョージ・サンタヤナは言っています。「過去を忘れる者、彼はそれを繰り返す運命にある。」と。

このように考えますと、私たちはこの二つの選択肢のいずれに対しても「ノー」と言わねばなりません。私たちが忌まわしい過去に対して立ち向かう正しい方法とは、何もなかったかのように忘れてしまうことでもありませんし、相手に報復することでもないのです。

過去の誤った事実を検証し直視する

個人や社会や国家が過去と向き合うための第三の方法、正しい選択肢は、“自分たちの中にある負の部分を直視すること”です。自己の非を認めるということは、「ごめんなさい」の一言を言わなければならないことです。この言葉は世界中のどんな言語でも、最も言いにくい言葉です。私が寝室で妻と二人きりの時でさえ、妻に向かって「ごめんなさい」「許して下さい」と言って頭を下げるのは大変難しいです。しかし、これが唯一の最も有効な手段なのです。

私たちが南アフリカで試みたのも、まさにこの方法でした。私たちは過去の惨事がさも“何もなかったかのように振る舞うこと”はしませんでした。また、私たちを虐げてきた白人たちに“報復しよう”とも思いませんでした。そうではなく、“過去に実際に起きた悲劇を検証する”この道を選んだのです。

恐ろしいことが起こっていたのです。それは恐ろしい事実でした。私たちは人に毒入りコーヒーを飲ませたのです。人の頭を銃で撃ち、その死体を焼いていたのです。ひとりの人間の死体を焼くのには九時間もかかります。その死体を焼きながら、バーベキューを食べ、ビールを飲み、別の肉を焼いて料理していたのです。こちらでは人間の肉を焼きながら、あちらでは牛の肉を焼いていたのです。私たちの国ではおぞましいことが行われていたのです。

私たちは、できるかぎり公明正大に過去を直視することを誓いました。もちろんそのことでかえって傷口を広げることになる危険もありました。しかし私たちは、それを恐れませんでした。もしもその傷口をきれいに洗い、そして薬を塗れば、傷はきっと癒える、そう希望を抱いていたのです。

和解、そして赦し

神はネルソン・マンデラ氏をはじめ、素晴らしいお手本を私たちにお与えになりました。マンデラ氏は「私は人間である。私には人権がある」と主張しただけで、二十七年間も牢獄で過ごしたのです。ですが彼は無事に釈放され、民主的に選ばれた最初の大統領となりました。大統領に就任するにあたり、かつて自分を牢屋につないでいた白人の看守たちにむかって言ったのです。

「私の大統領就任式に特別ゲストとして出席して欲しい」

彼は敵対していた政治家、その妻たち、さらには未亡人にいたるまで、まるでお茶会にでも誘うように、自分の就任式に招待しました。もちろん、彼女たちの多くが“アフリカーナ”(南部アフリカに居住するオランダ系住民。南アフリカ共和国のヨーロッパ系人口の六割を占める。アパルトヘイト制度の人種分類の下では、アフリカーンス語を話すイギリス系住民とアフリカーナ系住民が「白人」として分類された。)でした。

このような“赦す”という方法は果たして本当に有効だったのでしょうか。すでに一九九四年から十二年が経っています。いまも問題は山積であることは確かです。ですが、依然として世界は南アフリカの安定を見て驚いています。私たちがきっと白人たちに報復する、そう思っていたのでしょう。事実私たち黒人は「犬」のような扱いを受けたのですし、当時は「原住民 ―― これは黒人のことを意味しています ―― と犬は入るべからず」と書かれた標識までありました。しかし私たちはこの“赦す”という方法をとったのです。

この“赦し”が有効だったかどうかは、他の選択肢を考えると分かります。

たとえば“目には目を”の選択肢が採用された北アイルランドはどうでしょうか。この選択肢が和平をもたらしたかと言えば、そうではありませんでした。中近東の場合も同じでしょう。“報復”は、何の安全をもたらすものでもありません。自爆テロに対して報復したからといって、さらなる自爆テロを阻止することは出来ません。むしろ“報復”とは、自爆テロを再び招く最も確実な方法なのです。自爆テロ、報復、報復への報復、報復への報復への報復……、こうして際限なく続いていくのです。

昨今では“報復の正義”(retributive justice)ということが盛んに言われておりますが、正義には別の正義があります。それは“復活の正義”(restorative justice)です。“復活の正義”においては、被害者を気遣うのと同じ分だけ加害者のことを気遣わねばなりません。加害者はより善い人間になる能力を持っております。また、過去に一度殺人を犯した者が、常に殺人者であるわけではありません。“復活の正義”は未来の可能性を信じるという理念に基づくものなのです。

人間の可能性

私たちは信じています。人間は変わることが出来ます。人間はより善くなることが出来るのです。そして、かつての敵と友達になれるのです。そしてすくなくとも南アフリカではこれは現実のものとなりました。南アフリカでできたことなのです。だから世界中のどこであっても不可能ではないはずです。

南アフリカには「ウブントゥ」(ubuntu)という言葉があります。これは人のもつ本質、人が人で居るためには、他の人が居なければいけないということです。

私たちは孤立していては人間たることはできないのです。私たちが人間でいるためには、必ず他の人が必要なのです。自己と他者は互いに互いを必要としています。それは神が私たちが共に生きるようにと創造されたからなのです。私たちは共に生きるように創造されているのです。そして最終的に私たちはひとつの家族になるために創造されているのです。ですから、“赦しを与える”というこの方法は、我々が最終的に世界で生き残るための唯一の方法になるでしょう。それは我々が共栄するための唯一の道であり、我々が共に安全でいられるための唯一の道なのです。

こんなことは実現不可能だと思うかも知れませんね。でもこれは実現可能なことなのです。一度は実現したのです。ですから、それは二度でも三度でも実現できないはずがありません。

神はみなさまひとりひとりを信頼してます。神はおっしゃっています。

わたしの子たちよ、おまえたちは一体どうしてそんな破壊兵器のために何億ものお金を費やせるのか。わたしの子たちよ、おまえたちにはできるはずだ。その予算のほんの僅かだけでも割いてやりなさい、おまえたちの兄弟や姉妹がきれいな水を飲ませ、十分な食糧を与え、良い教育を受けさせ、適切な医療を受けさせるために

神はみなさまの助けを求めておられます。神はおっしゃっています。

わたしの夢を叶えるために手を貸しなさい。わたしの夢、それはわたしの子どもたちがいつの日か目を覚まし、自分たちがひとつの家族の一員であることに気付いてくれることだ

ひとつの家族、それは私たち人類という家族です。それは神の家族なのです。神はおっしゃっています。

おまえたち以外には誰も、わたしの夢を実現するのに手を貸すことはできないのだ。笑いにみちあふれた世界、慈悲にみちあふれた世界、やさしさにみちあふれた世界、思いやりにみちあふれた世界、これを実現することがわたしの夢なのだ。わたしの子たちよ、わたしに手を貸しなさい。

ディスカッション

会場からの質問

「和解」は平和構築における重要な要素であり、実際に大きな役割を果たしていると思います。時として「和解」は被害者意識を無視して語られることもあり、「和解」には暴力的側面があると批判されることすらあります。このような批判についてツツ大主教はどのように思われますか。

ツツ大主教

確かに「和解」という言葉は良くない意味で使われる場合もありますね。というのもしばしば「和解」とは悪に立ち向かうことを避けることの意味で理解されることがあるからです。しかしながら、それは安直な和解に過ぎないのであり、本当の和解とは言い難いものです。

真の意味での和解とは、現実の忌まわしい出来事に正面から立ち向かうものでなくてはなりません。そしてそれは誰かに赦しを強要するものではないのです。

和解は当人の自由意志に基づいて行われるべきものです。そして、和解が成立した場合、問題を起こした側は償いをしなくてはなりません。たとえば、あなたが誰かのペンを盗み、「ごめんなさい。和解しましょう。どうか赦してください」と言いながらそのペンを持ち去ることはあり得ませんね。

和解が成立するためには、問題を起こした側が自分の犯したことを相殺するだけの十分な償いをしなくてはなりません。さもなければ、犠牲者に対してさらに犠牲を払わせることになるでしょう。真の和解が成立するために、加害者は犠牲者に対して償いをするために、出来る限りのことをしようと努めるべきなのです。

平和構築への情熱

会場からの質問

若者ができる平和貢献についてアドバイスをお願いします。

ツツ大主教

私たちは、理想を絶えず追い求める若者たちによって支えられてきました。ですから、私が若者に向けて申し上げたいことは「夢を持ちなさい」ということです。平和な世界、戦争のない世界、そして、貧困のない世界を作りたいという夢を持ち続けてください。夢を諦めないで下さい。輝く星に手を伸ばして下さい。誰もが幸せに暮らせる世界を作ることは可能なのだと老いた者たちに言ってやって下さい。そうしたことは不可能であると言える理由が一体どこにありましょうか。この世界がより良い世界になり得るのだということを私たちのような年取った人間に言えるのは、あなた方のような若者なのです。

会場からの質問

アパルトヘイト撤廃運動には大変苦労をされたと思われますが、ツツ大主教のエネルギーの源、心の支えとなったのは何だったのでしょうか。

ツツ大主教

私は常々、世界中の実に多くの方々の愛と祈りに支えられてきたのだと自覚しております。これは一人のキリスト者として申し上げますが、私は世界中の方々が自分のために祈って下さったのだと思います。

さらに私にはまた、この世界は道徳に支配されている、という信念があります。この世界で、不正義がいつまでも幅を利かせることはあり得ません。悪が永遠に善を打ち負かすこともあり得ません。

アパルトヘイトが撤廃されるであろうことは分っていました。その勝利の日に自分が立ち会えるかどうかまでは分かりませんでした。しかしその日は必ず来ると確信していました。ですから、私は「もしアパルトヘイトが撤廃されたら」などとは言わずに、「アパルトヘイトが撤廃された時には」という言い方をしていたものです。

今日も、暴君として人々の上に君臨して、威張り散らしている人たちが存在しています。彼らの絶大な権力や権威は永遠に続くように見えるかも知れません。しかし歴史が示してきたのは、彼らは必ずいつの日か滅びる運命にあるということです。彼らはいずれは必ず歴史のごみとして葬り去られることになるでしょう。

宗教と世界平和

会場からの質問

世界平和を実現する上で、キリスト教はどのような役割を果たせば良いのでしょうか。また西欧社会でのイスラム教徒に対する差別について、ツツ大主教はどうお考えになられますか。

ツツ大主教

この二つは関連した質問であるように思います。

私は時々、自分が神でなくてよかったと思うことがあります。神であったら、私たちすべてを「神の子」と見なさなければなりません。ビン・ラディン、ジョージ・ブッシュ、そしてこの私も含めまして、すべての人間が神の子なのです。ですから、きっと神は「おやまあ、この人たちは本当に私の子どもたちなんだろうかな」とおっしゃっているのではないでしょうかね。

さて、宗教についてですが、「宗教とは道徳的に中立なものである」と考えることがとても大切だと思います。宗教とは、ある意味では善でも悪でもないものです。問題は宗教がみなさんにどのように影響を与えるかということです。それはちょうどナイフのようなものです。テーブルの上に置かれたナイフは「道徳的に中立なもの」ですよね。ナイフがパンを切るのに使われれば、それは「善」です。しかし、そのナイフが誰かの腹を刺すのに使われれば、それは「悪」となります。宗教も同じです。

キリスト教はマーティン・ルーサー・キング牧師やマザー・テレサといった、数多くの素晴らしい方々を輩出してきました。ですが、その一方ではアメリカのクー・クラックス・クラン(KKK)が十字架をシンボルとしていることも事実です。彼らはアフリカ系アメリカ人にリンチを加えています。彼らは人種差別主義者です。

さらに、南アフリカでアパルトヘイト制度を支えていたのは異教徒ではなく、毎週教会に通うキリスト教徒でした。第二次世界大戦中にドイツでホロコーストを実行したのも異教徒ではなく、キリスト教徒でした。北アイルランドで戦争をしているのもキリスト教徒です。彼らは真の信仰者ではなく「党員」に過ぎません。この種の「党員」の人たちは徒党を組んでいます。ですが残念なことに、彼らは共に労することが出来ない人たちなのです。
一体、キリスト教徒がひとつになる日が来るのでしょうか。キリスト教徒は様々な局面におきまして、個々の目的を達成するために団結出来ます。ですから、いつの日かキリスト教世界が最初期の頃のように一つになればよいと願っています。しかし、そのためにはイエスの再臨まで待たなくてはならないかも知れません。

私はどうにかしてご質問にお答えしようとしましたが、なかなかうまく表現できませんね。ですが事実として言えるのはこういうことではないでしょうか。

それは、私たちには敵が存在すると、物事が単純に見えるということです。米ソの冷戦が終わった時に、私たちはすべて、新しい時代が到来すると思って喜びましたよね。その時にはもう世界が二極に分かれて争うことはなくなるだろうと思ったものです。ところが、実際にはその考えは甘かったことが後から分かりました。

冷戦時代には明確な色分けがあったのです。もし「あなたは誰ですか」と訊かれたら、「私は反共産主義者です」などと答えればよかったのです。しかし、共産主義がなくなってしまうと「あなたは誰ですか」と訊かれたときに、「さあ、自分でもよく分かりません」とでも言わなければならなくなってしまったのです。これは南アフリカでも同じことが言えます。私たちはかつて「反アパルトヘイト主義者」を自認しておりました。ですが、アパルトヘイトが撤廃されてしまったいま、自分たちのことをどう呼んだらよいのか分からない人が多いのが事実です。

大きな変化が訪れる時代には、どうしても難しい問題がそれに伴い生じるようです。私たちは多様な価値観や複雑な問題に対処することを苦手としていますし、物事を単純に解決するのを好む傾向にあります。だからこそ「民族浄化」といった行為が行われているのです。「差異」というものを好まない人々が自己正当化する論理はこうです。「彼らは自分たちとは異なった民族であり、異なった言語を話している。彼らはすべての点で自分たちと異なっている。だから、そうした差異を抹消するべきだ」と。「このテロリストを生み出したのは彼らの宗教なのだ」という言い分の下、「私たちはこのおぞましいイスラム教徒と戦おう」と語っているのです。

それならば彼らは、キリスト教もテロリストを生み出した宗教であると言うでしょうか。北アイルランドにはテロリストがいますが、決して彼らのことを「キリスト教徒のテロリスト」とは呼びません。彼らは「キリスト教テロリスト」と呼ばれることはありません。「IRA」(アイルランド共和軍)と呼ばれているだけです。また以前、オクラホマを爆撃したのはキリスト教徒でした。これも紛れもないテロ行為です。しかし誰も「キリスト教がテロリストを生み出す宗教である」とは言わないのです。しかしながら、このような人々はこれまでもテロ行為をしてきたわけですし、今もテロ行為をしているのは事実なのです。

ですから私たちこそが立ち上がって言わなくはならないのです。これは間違っている、善いキリスト教徒もいるし、悪いキリスト教徒もいます。善いイスラム教徒もいるし、悪いイスラム教徒もいるのです。そう語るべきだと思います。

篠田英朗

ありがとうございました。ダライ・ラマ法王とウィリアムズさんにコメントをお願いします。

ダライ・ラマ法王

親愛なる私の精神的兄弟をこうお呼びしてもよろしいでしょうか。「ネルソン・マンデラ大主教」もちろん冗談ですが。
実際、ツツ大主教とネルソン・マンデラ元大統領は、一枚のコインの裏表のようなものです。かたや宗教的指導者であり、かたや政治家ですが、お二人とも平和、非暴力、和解のために貢献されました。

ツツ大主教のお話は大変に意義深いものでした。また、大主教のお話の美しさにも感銘を受けました。

今のお話の中にありました「ウブントゥ」という言葉ですが、以前私が南アフリカに伺ったときにも耳にしました。この言葉は人間の暮らしの中で最も大切な愛や、共生の精神や、友愛の精神を意味しています。はじめてこの言葉の意味を聞いた時、この言葉には人間の深い叡知が込められていると思いました。

私はいつもこの精神的兄弟に敬服しております。その見事なお話も素晴らしいですし、南アフリカで非暴力と和解のために全力をあげて貢献しておられることには尊敬の念を禁じえません。最近BBCの短い特集番組を観ましたが、ツツ大主教は現在もアフリカの困難な状況を解決するために活動しておられます。彼は信念を行動に移す人だと私は信じております。まことに驚嘆に値する素晴らしいお方であります。

ベティ・ウィリアムズ

ツツ大主教の話をお聞きするたびに私は感動しています。大主教のことを敬愛してやみません。彼とはもう長い友人です。

南アフリカの黒人が投票権を獲得したあの日のことは、いまもよく覚えてます。その日、私は大学で教えてましたが、テレビでその光景を目にして、感動で涙が止まらなくなりました。ツツ大主教は踊っていたんです。そこで私は大主教にファックスを送りました。「親愛なる大主教様、あなたが投票されるのを見ました。涙がとめどなく流れました。」すると、およそ一時間後に大主教からお返事のファックスが来ました。「泣き虫のアイルランド女性へ。どうか涙をふいて下さいね。今の私にふさわしい言葉は『とうとうやったね』ですからね。」

さて、“赦し”についてですが、私たちは人生の中で様々な人々に感銘を受けています。その中には無名な人もいます。たとえば、私の叔母ブライディ・ダンがいます。彼女にはダニーという息子がいました。叔母には八人の子どもがおりましたが、ダニーは医者志望でして、八人の中でも優秀な子でした。彼はクイーンズ大学の医学部予科生でした。貧しい家庭でしたから、週末にはパブでアルバイトをしていました。

しかし、ある晩仕事からの帰り道で、彼は「目には目を」の犠牲者となりました。プロテスタントの準軍事組織、アルスター防衛軍に銃撃されて亡くなったのです。彼らは十字架の印を付けていました。これは本当の話です。叔母が玄関のドアを開けると、彼は叔母の腕の中に倒れこみました。

葬儀の時、報道陣は「いまのご心境をお聞かせください」などという非常に残忍な質問をしました。よくも叔母に向かってそんな質問ができたものです。私は彼らの無神経さにとても腹が立ちました。ですので叔母もきっと返事はしないだろうと思っておりましたが、叔母は報道陣に向って「私は自分がダニーの母親であって嬉しく思います。自分が彼を殺した人間の母親でなくてよかったです」と答えたのです。

敵を完全に赦す勇気は、私たちすべてに必要なものです。私は一人の母親として、子どもや孫を奪われた方の気持ちを想像することだに出来ません。
ですが、私にも赦しが出来るのだということを知っています。そうでなければ、私に今の仕事はできないでしょう。こうした赦しの姿勢こそが、ツツ大主教の偉大である所以です。大主教は本当に素晴らしい方です。赦しは大主教にとって容易なことなのですね。私は叔母のブライディから教わったことを、ツツ大主教からも教えて頂きました。

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