作成日: 2016-09-18 最終更新日: 2016-09-24 作成:野村 正次郎

A1 『解深密経』に基づく立場

A1 『解深密経』に基づく立場

A1には二つ、B1経典でどのように説かれたのかの提示・B2その意味がどのように注釈されたのか。

B1 経典でどのように説かれたのかの提示

B1に四つ、すなわち、C1経典における対立を排斥しようとする問い掛け・C2その対立を排除する解答・C3三性とは一体何かの確認・C4 それらにより成立している意味の解説。

C1 経典における対立を排斥しようとする問い掛け

『解深密経』では次のように説かれる。

世尊以無量門、曾説諸蘊、所有自相・生相・滅相・永断・遍知。如説諸蘊・諸処・縁起。諸食亦爾。以無量門曾説諸諦所有自相・遍知・永断・作証・修習。以無量門曾説諸界、所有自相・種種界性、非一界性・永断・遍知。以無量門曾説念住、所有自相・能治・所治、及以修習未生令生、生已堅住・不忘・倍修・増長広大。(如説念住・正断・神足・根・力・覚支亦如是。以無量門曾説八支聖道。所有自相能治所治。及以修習未生令生。生已堅住不忘・倍修・増長広大。)世尊。復説「一切諸法皆無自性・無生・無滅・本来寂静・自性涅槃。」未審世尊、依何密意作如是説、「一切諸法皆無自性・無生・無滅・本来寂静・自性涅槃」。我今請問如来斯義。惟願如来哀愍解釈。説「一切法皆無自性・無生・無滅・本来寂静・自性涅槃」所有密意。(大正16・693下-694上)

世尊よ、あなたは多くの異門を通じて、諸蘊のそれ自身の特質をお説きになられました。生相、滅相、永断、その遍知をもお説きになられました。蘊と同様に、諸処・縁起・(四)食に至るまで〔そのように〕お説きになられました。それと関連して、諸真実のそれ自身の特質・遍知(苦諦)・断(集諦)・現観(滅諦)・修習(道諦)と、諸界各々の特質、様々な界や多くの界・永断・その遍知・三十七菩提道品それぞれのそれ自身の特質・異なった立場・対治、生じていないもの生起・生じたものが持続すること・忘失しないこと・繰り返し生じること・増長して広大になることもお説きになられました。また一方では、世尊よ、あなたは一切法は無自性であり、一切法は不生不滅であり、本来寂静であり、本性により涅槃している、ともおっしゃられました。世尊よ。何を意図されて「一切法は無自性であり、一切は不生不滅であり、本性により涅槃している」とおっしゃられたのですか。「一切法は無自性であり、一切は不生不滅であり、本性によって涅槃している」とお説きになられたその時に意図された、まさにその意図を、世尊よ、私はあなたにお伺いしたい。(DK 25a2-26a1の取意)

この問いは、ある経典では「一切法は無自性である」などと説かれ、また別の経典では「蘊などのそれ自身の特質などが有る」と説かれているが、それら両者は言葉上では矛盾しているが、〔釈尊の教えに〕矛盾は決して無いはずであるから、何を密意なさり無自性等を説かれたのかということへの問い掛けである。同時にこれは〔初転法輪で〕「それ自身の特質によって有る」などと説かれたことについても、それが一体何を意図して説かれたのか、という〔初転法輪の〕密意をも問い掛けでもある(1)Cf. Drang nges chen mo, 18b5-19a3: パラマールタサムドガタによる釈尊に対する経典における対立を排斥しようとする問掛内容は有る。ここ(『解深密経』)での初転法輪では「色から三十七菩提道品に至るまでの有為の諸法において、それ自身の特質によって成立しているものと生起などが有る有る」と多くの経文で何度もおっしゃられ、ここでの中転法輪において「色から一切智にいたるまでの諸法にはそれ自身の特質によって成立している生滅などが無い無い」と多くの経文で何度もおっしゃられ、この二つを口ずさんでみると対立しているけれども、釈尊は対立をお持ちになられないので、ここでの中転法輪でそのように説かれたそれが何を意図して説かれたのだろうかと直接申上げ、ここでの初転法輪でそのように説かれたそれが何を意図されて説かれたのかということを間接的に申上げる、というこれが問い掛けの内容であるからである。パラマールタサムドガタに最初に二転法輪の言葉通りのものが一致していないではないのかという疑いが生じて申上げたわけではない。そのような疑いが後代の所化に生じることを排除しようとすることを目的となさり申上げたからである。

この箇所の「それ自身の特質(所有自相)」という箇所に対して、中国の大註釈などでは「不共の特質(別相)」のことであると説明している(2)圓測『解深密経疏』BT ti 316b7-8,卍続蔵三四・三七九左下。「 所有自相即是別相。如説色是質礙如是識是了別。生滅相即是通相。色等皆有生滅相故。」。しかし、これは正しくない。というのも、そもそも『同経』では、遍計所執のことを「それ自身の特質によって成立しているもの」と説いていることは明白であるからであり、さらにいうならば、遍計所執にも「不共の特質付けするもの」(mtshon byed 定義)は有るので、「相無自性」を遍計所執〔という基体〕上で説明できない、という過失に陥るからである(3)ここでは圓測が「不共の特質付けするもの」つまり「定義」と訳されるもののことを指しているとする見解が批判される。遍計所執の定義は「分別によって仮設されただけのもの」(rtog pas btgas tsam)であるので、遍計所執の定義はあるということにより、「遍計所執は相無自性である」という相無自性の意味が「遍計所執は不共の定義、自相が無いものである」ということになってしまい、意味をなさないと批判している。つまり「自相」とは「定義」のことではないということである。。「様々な界と沢山の界」については註釈者たちは別のものを指して説明している(4)圓測『解深密経疏』BT ti 316b7-8,卍続蔵三四・三八〇右上。が、後出の経文(5)具体的には次の箇所を指している。『解深密経』「於六界十八界。一一界中皆応広説。(大正一六・六九六下)六界と十八界という界それぞれにそのようなのである。」(DK 35b6)を参照すると「十八界」もしくは「六界」のことが指されていると言える。「不忘」とは「忘れない」ということである。

注釈   [ + ]

1. Cf. Drang nges chen mo, 18b5-19a3: パラマールタサムドガタによる釈尊に対する経典における対立を排斥しようとする問掛内容は有る。ここ(『解深密経』)での初転法輪では「色から三十七菩提道品に至るまでの有為の諸法において、それ自身の特質によって成立しているものと生起などが有る有る」と多くの経文で何度もおっしゃられ、ここでの中転法輪において「色から一切智にいたるまでの諸法にはそれ自身の特質によって成立している生滅などが無い無い」と多くの経文で何度もおっしゃられ、この二つを口ずさんでみると対立しているけれども、釈尊は対立をお持ちになられないので、ここでの中転法輪でそのように説かれたそれが何を意図して説かれたのだろうかと直接申上げ、ここでの初転法輪でそのように説かれたそれが何を意図されて説かれたのかということを間接的に申上げる、というこれが問い掛けの内容であるからである。パラマールタサムドガタに最初に二転法輪の言葉通りのものが一致していないではないのかという疑いが生じて申上げたわけではない。そのような疑いが後代の所化に生じることを排除しようとすることを目的となさり申上げたからである。
2. 圓測『解深密経疏』BT ti 316b7-8,卍続蔵三四・三七九左下。「 所有自相即是別相。如説色是質礙如是識是了別。生滅相即是通相。色等皆有生滅相故。」
3. ここでは圓測が「不共の特質付けするもの」つまり「定義」と訳されるもののことを指しているとする見解が批判される。遍計所執の定義は「分別によって仮設されただけのもの」(rtog pas btgas tsam)であるので、遍計所執の定義はあるということにより、「遍計所執は相無自性である」という相無自性の意味が「遍計所執は不共の定義、自相が無いものである」ということになってしまい、意味をなさないと批判している。つまり「自相」とは「定義」のことではないということである。
4. 圓測『解深密経疏』BT ti 316b7-8,卍続蔵三四・三八〇右上。
5. 具体的には次の箇所を指している。『解深密経』「於六界十八界。一一界中皆応広説。(大正一六・六九六下)六界と十八界という界それぞれにそのようなのである。」(DK 35b6)