作成日: 2016-09-18 最終更新日: 2016-09-23 作成:野村 正次郎

自他等換修習法和訳

『自他等換修習法』bdag gzhan mnyam brje sgom tshul

一般にゲルク派の道次第(ラムリム)では、弥勒の『現観荘厳論』より伝わる「七因果口訣」(rgyu ‘bras man ngag bdun)と、シャーンティデーヴァより伝わる「自他等換」(bdag gzhan mnyam brje)との二つの発菩提心の仕方があると言われているが、本書はこの後者の発心の方法を説明する書である。本書の特徴として、前半で、我執との問答を通じて、自己と他者とが等価であることを詳しく述べていることがあげられる。本書は跋文でも述べられるように、一座の観想で修習される自他等換の方法を述べており、比較的容易な観想法であるので、ここに翻訳しておいた。テキストはショル版全集を使用し、読みやすい翻訳を心がけた。訳=ゲシェー・ロサン・チャンパ+野村正次郎

ナモーグルベー。自他等換の修習には二つが有る。平等の修習・交換の修習。

1. 平等の修習

【基本命題】自己には愛情を注ぐが、他者のことは見放す、というように、自己と他者とを一方は愛情を注ぐべきもので、他方はそうではない、とする不平等は正しくない。自分も一切有情も両方ともが、夢の中でさえも幸せを望んでいる点で等しく、苦しみを望んでいないことでも等しいからである。

我執は云う。「確かにそのような望みは等しいかも知れない。しかし、各自の幸せは各自で達成すべきものなのである。自己と他者とは相続が異なっているので、自己が一切の有情を利益しようとするのは無意味なのではないだろうか。」

相続が異なっていても、他者の害悪を取り除き、幸福を実現してやらなければならないのである。たとえば、母親と子供は、互いに相続が異なっているが、一方が目的とすることを他方が実現してやらなければならない。これと同様なのである。

我執は云う。「その場合には、両者はお互い愛しく思っているから可能なのである。しかし一切有情という他者に対してそのように働きかけても意味が無い。」

一切有情は、我々が過去に、無始時以来の輪廻で果てしなき無限の転生をした時に、計り知れない回数母親であった者たちなのである。今生の母親が我々を恩恵により守ってくれるのと同様に、彼らは我々をあらゆる利益へと導き、一切の危害から守り、自分たちの生命よりも愛しいものとして愛情を注いでくれたくれた者たちである。我々が飲んできた彼らの母乳は、海の水よりも多いのである。したがって、今生の母親に対するのと同じように愛情を注ぐ必要が有るのである。

我執は云う。「そのように〔自分の母親であったその〕時には愛情も注げるかも知れない。しかし今となってはお互いに顔も知らない。さらに、なかには我々に敵対して、我々のことを何とか害そうとしている者さえもいる。それ故、彼らを愛しく思いようがない。」

遥か彼方の無限の過去からの長い間に渡って、彼らは自分たちを愛しく守ってくれた、ということ考えずに、いまこのほんの僅かの間だけ、些細な好き嫌いということによって彼らに対して嫌悪感や怨みを抱くのは、愚劣極まる行いである。

たとえば、母親と子供とが生涯に渡りお互いに非常に愛し合っていても、お互いに年を取り、ある日、病気になり錯乱し、邪魔な存在であると勘違いするかも知れないだろう。そのような時に、嫌な言葉を言い合ったり、暴力を奮るったりすることもあるだろう。たとえこのような時であっても、子供は自分の親に対し、より一層の愛情を注がなければならないのである。そのような時に「今はもう、自分にとってどうやっても愛すべき存在ではない」と見放すのならば、「大事な時にちっとも役に立たない息子だ」「なんと恥知らずの人物だろう」と世の中のすべての人が思うだろう。これと同様なのである。

我執は云う。「では仮に愛情を注いだとしよう。しかし、この種の行為は他者に利益をもたらすのだろうか。そうではない。これは自分の方に苦労をもたらすに過ぎない。」

利益心というものは、水を飲めばすぐに渇きが癒えるように、直ちに欲望を満たすようなものではない。だからといって一般的に全く役に立たないか、というとそうではない。

我々は、今日まで、他者に対する利益心を明確に出すことができなかったので、誰に対しても利益することはできなかったのである。もしも今後、利益の心を習得することができたとしよう。そうすると良いことも悪いこともすべて心に付き従うことになるのである。そして、その心の力によって我々の能力も増加するのである。志をもつことととそれを実践していくことにより、その両者が相互に補強しあい、更に能力が増加するのである。そしていつの日にか最終的には、〔仏陀になり〕自分の身体のひとつひとつが光明を放つようになり、その光によって一刹那で数えきれないほどの有情を利益することが可能になるのである。今日一切の有情たちが救いの拠所としている仏世尊たちも、最初は私たちと同じような運命を持ち、一切の輪廻に束縛されており、いまの我々のように何らの特殊な能力も持っていなかったのである。しかし、彼らは次第を追って、心を浄化し、自利と利他という二つの目的を自在に成就できる今日のような御姿となったのである。

我執は云う。「そのように訓練し習得すれば、もしかすると利益することが出来るかも知れない。しかし、その習得期間中は、確実にそのような境地に到ることが出来る確定はない。他者を一時的に利益しようという思いがあっても、他者の身心の両方を利益することができるようになる可能性は低いので、そうしようという志を持ちようがない。」
一時的に利益できないという訳ではない。たとえば自分の側に栄光やゆとりが完全に備わっていることを他人が好ましく思った時には、自分の心に利益があるだろう。これと同じように、一切有情が幸せであることを自分が好ましく思うのならば、それによって一切有情の方も好ましく思うのである。これは好ましく思う気持ちがまた利益をもたらすからなのである。

我執は云う。「自分は利益心をもっていても、有情の方はそれを関知しない。だから〔我々がいくら思いやりの気持ちをもっても〕彼らが嬉しく思いようがない。」
善の方面を護っている(善をしていることを喜んでそれを助けている)神々たちのように、その種の行為が分かるものは数限りなく居る。たとえ直接的には分らなくても、偉大なる縁起によって、慈を修習している人を見ただけで、人間以外の危害を与える悪霊たちでさえも好ましく思うことがある。このような逸話は沢山有る。たとえば毒蛇が直接危害を与えてこなくもそれを見ただけで嫌な気分になるであろう。これと同じことなのである。
汝、我執が言う通り「この利益心は心と身体の両方ともに役立つものではないから、意味が無い」ということがもしも真実であるとしよう。もしもそうであるとすれば、如何なる暴言も、身体に危害を与えるものではないし、物質ではない心に対しても危害を与えないことになってしまい、これらに対して怒りの気持ちがを起るのも無意味である、とまず考える必要が有るだろう。

我執は云う。「利益心が心と身体のいづれにも一時的には何らの利益をもたらさないことと、暴言が危害を与え得ないこととは論理的には同じことなので、両方ともに拘ってはならない。」
この両者は一致していない。危害に対する嫌悪感の異熟と対応している原因により苦しみのみを引き起こすが、利益心は歓喜を継続的に増加させるものなのである。したがって、自己を愛するのと同じように他者を愛する心を習得する必要が有るのである。

2. 交換の修習

自他の交換の必需性

自己も他者も愛しいのは等しいということだけでは不十分である。

過去において、自己だけを愛しく思い、他者を見放してきた。そしてそれにより、いまこの輪廻のあらゆる過失が起こっているのである。遥か彼方の過去からの輪廻の過失を細かいものも粗雑なものをも断じ尽くして無上菩提を得るためには、天秤の両方に釣り合いがとれるように、いままでは愛おしく思っていたもの(自己)と見放してきたもの(他者)との二つの比重を交換し、自己を見放し他者だけを愛しいものである、と捉えなければならない。

自己愛の過失を考える

確かに、自己愛は自分の幸せの術を実現してきただろう。しかし、その反面、どのようなありとあらゆる苦しみが起こってきたのかを考えてみるといい。自己愛や利己主義という欺瞞は、害悪だけを実現してきたのである。自己愛が理由となり、自己の受容している身体、親戚、友達、召使いや取り巻きや領土などといったあらゆるものに対する執着心が起こったのである。

大なり小なりそれを脅かすもの、そして脅かされる恐れや怒り、嫉妬心や猜疑心などといったありとあらゆる煩悩が引きだされてきた。そして、さまざまな悪業を積み、現在のこの一切の輪廻の苦しみが生み出されたのである。三千大千世界の衆生が敵対してきたとしても、我々は彼らを地獄の火のなかへと落とすことが出来ない。地獄の火の中へと導く者は、唯一自己愛というこれにほかならない。最初それによって業を積んだだけでなく、最期にも冷たい現れが起こり、自己愛が温かさを求め地獄の火のなかに入っていくのである。この様子は経典に説かれる通りである。またもし心の表面に強い自己愛が起こっているとすれば、必ずその後に災難が起きるであろう。これ故に、前カダム派の師たちは「自己愛とは梟の頭をもつが如き悪い兆候のなかのさらに究極である」と考えてきたのである。〔ダルマラクシタ作〕『精神修養・兵器の輪』でも

災難を引き起こす分別の頭の上に 投げ捨てる
敵である我である殺人者の心臓へ マーラヤ

と利楽の生命を脅かす殺人者のことを指して自己愛である、と説かれている。

他者への愛の功徳を考える

他者を大切にすることの功徳を考えるためには、まず行為とその結果(業果)に対する信頼の心を獲得する必要がある。この法則は「布施により享受が有る」「戒によって楽が有る」と聖典でも証明されているが、聖典のみだけではなく、考察によって確定を得なければ、これに対する確固とした信頼の心が起こってくるものではない。

我々が現在見ている世界を考えてみるとよい。春に種を植えなければ、秋になっても収穫を得ることも出来ないであろう。いちど焦がしたり、腐敗してしまった種ではない種が必要なのである。更に大麦を植えると大麦が生えるし、小麦を植えると小麦が生え、ごちゃごちゃに生えてくることは無い。これと同様である。他者に施しをすれば、享受が生まれ、戒律を守って、自己の身・口・意の三門を浄らかにすれば、〔人・天という〕善趣の浄依が得れる。忍辱を修習すれば、有情に対する危害や暴力を断じることになり、それらを断じたことによって、有情が見たときには好ましい美しい身体を達成することが出来るのである。

このような何らかの先行する原因により、それに応じた結果が生じる、というこのことは断見のローカーヤタ学派以外の外教徒であれ、仏教のどの学派であれ、口をそろえて同じように述べている。

このようなことから、施しの種を蒔こうとする田畑の如き施しの対象、つまり有情に依って〔功徳を積む必要があり〕、同様に、戒律によって他者に対する害悪を根本から退け、忍辱によって善浄化の四法の実践などの六波羅蜜と二資糧とのあらゆる実践とがその基盤たる有情に依って達成すべきものであるので、果である法身・色身もまた有情の恩恵に依り、獲得されるものである理解しなくてはならないのである。

利己主義と利他主義、仏陀と我々の優劣

勝者、釈迦牟尼仏と我々との間にはもともと優劣があったのではない。

我々は無始時の過去の輪廻より同じようにように輪廻転生してきた。ある時は我々の方が王で、彼が我々の家臣や召使いであった時もあった。またあるときはこれとは立場が入れ替わっていたこともあったのである。あたかも我々は沸騰した湯のなかに居たかの様であったのである。

しかしある時彼(釈尊)は大乗の種姓を覚醒し、他者を重視する心を起したのである。特に〔地獄において〕自分の相棒が火の車を引くことが出来なかったことを思いやり、その思いが耐え忍ぶことができなかったので、自分が彼の仕事を引き受けてやろう、と考えたのである。そしてそれによって〔地獄にいなければならない〕罪業が尽き、上界に生まれたのである。〔釈尊は〕それ以来、善趣に生まれるはじめ、そして現在は自利・利他の二つの目的を任運自在に成就する、あらゆる衆生の唯一の救いの拠り所、〔つまり仏陀〕となったのである。

我々は、自己愛に支配されており、この世界で食物・宝物・財産・権力・名声等、目に見え、耳で聞こえるその限りのすべてを自分だけが得れればいいと思っているのだろう。しかし、すべての楽しみや幸せは、あたかも虹を追い掛ける如く、遠くへと過ぎ去る一方である。そしてありとあらゆる苦しみが、あたかも太陽が影を落とすかの如く、絶えずこちらに集まり、つきまとってきているのである。このようにさまざまな現前の苦しみと潜伏している苦しみという二つの重荷に押し潰され、如何なる術をももたず、あたかも錨の如く、強く束縛されている。そしてこれがいまの〔我々の〕状態なのである。

このようなことから、利己主義と利他主義とのどちらが正しい選択肢なのか、そして過失はどちらであり、功徳はどちらであるか、という差異、正等覚たちと我々との優劣をこれらの歴然とした事実から知るべきなのである。

仏陀とは利他心の究竟の状態である

ところで「現等覚」というのは、太陽の光や虹の光の如く、明るく輝き、きらびやかな光を放ち、天空に七色の虹が円かにあるかの如きものである、と多くの人は考えているだろう。しかしこれは実に意味の無いことである。利他の心を完全に究竟した状態を指して「仏陀」であるとするのである。『宝徳蔵般若波羅蜜経』で

このように菩提のために勝菩提へと向かい、
一切衆生に対する奴隷の如く住するのである

と衆生の目的だけのために精進しているものの勝子の究竟の行を「刹那加行」であると説かれている。更にそれに続けて

自分の幸せを捨てて望みをもつこともなく
他者たる有情を利益することに昼夜精進し
一人息子に対して母親が奉仕するかの如く
強き心で倦むことなく住すべきである

と第八事法身の意義とは、抜苦与楽を究竟し輪廻の存在が尽きる間、任運自在の仏業を通して衆生を利益することに失望することなく住すべきという、常楽我常に対する〔対治たる〕波羅蜜多のことであると説かれている。『宝徳蔵般若波羅蜜経』にはさまざまな他の註釈も有るが、後二章へ関連させている分けて、阿闍梨(ハリバドラ)がこのようになさったのは大変素晴らしいことである。

利己主義は過失の源泉であり、利他主義は功徳の蔵である

このように利己主義はあらゆる過失の源泉であり、利他主義はあらゆる功徳の蔵である。このことを分かっていながら、解脱という楽園に背を向け、地獄という火の穴に飛び込むのならば、悪霊に憑かれ気が狂い、心のなかに化け物を侍らしているのと同じことであろう。

交換の修習の一例

このようなことから、次のように修習するべきである。

勝者とその子息たちに、大きな苦しみの旋律の音をたて悲鳴を発する。「我々を苦しめるこの悪しき強敵を粉々に無くし給え」と。

彼らに対してそのような祈願を立てる時、彼らの智慧と慈悲と能力という雲がやってきて、勝義菩提心である、空性を証得する智慧という雷の焔が〔無明の闇を〕突き抜け、悪霊たる我執を粉々になり消滅させてしまう。

さらに世俗菩提心である、慈悲を本性とする甘露の流れが自分に降ってきて、自分の心に入って、自他等換の菩提心そのものとなる。彼らの御心の加持と自己の風と心とが無区別に混ざり合い、抜苦与楽等を自在にすることができるようになる。

そしてそれが辺際の虚空へと拡がってゆき、一切の有情の利益を成就することが可能となるのである。その時点での自己の一切の楽と善とが、各々の有情がそれぞれ必要とするものへと変化し、食物・衣服・住居・友達・親戚・仏教を教える阿闍梨などの様々な姿になり、増上勝と決定生の楽へと導いてゆく。

彼らの罪・苦・業・煩悩を習気とともに吸い込んで、こちら側へと導き入れる。そして自分の心の上に、集まってきた対象等を何度も抜苦与楽していかなければならないのである。

跋 文

これはハルハ・クルチェンモの僧侶と努力家の比丘クンチョク・サンゲーが自他等換の要請した時、『入菩提行論』禅定章にあるように、肉体という鳥や犬の餌になるようなものを愛おしく思うことは意味が無いから、些細な心を捨てて本質を実践する仕方や自己の円満に嫉妬や対抗心を修習する等の瞑想の対象は沢山あり、明日の苦しみを今日引き受けるなどといった精神修養の口伝の養生法など沢山あるけれども、ここでは略修の一座の養生法のみをすべて説明するために、尊者クンチョク・テンペードンメが急いで著したものである。筆記者はガクラムパ・クンチョク・クンガーである。

グンタン・クンチョク・テンペードンメ

Gung thang ‘jam dpal dbyang dKon mchog bsTan pa’i sGron me

略歴

1762-1823年。東チベット・アムド地方のゾルゲ・メーに生まれる。五歳の時、クンケン・ジャムヤンシェーパ二世・クンチョク・ジクメワンポによりガンデン金座主ゲンドゥン・プンツォク(dGe ‘dun phun tshog)の転生者として認められ、七歳の時にラブラン・タシキル大僧院へ迎えられ、クンチョク・ジクメワンポにより居士戒ならびに沙弥戒を授かり、「クンチョク・テンペー・ドンメー」(dKon mchog bstan pa’i sgron me)という名を授かる。
17歳の時に中央チベット、ラサの大本山デプン大僧院ゴマン学堂の法流に入り、顕教の学習を修了し、「ゲシェー・ラランパ」となる。以後密教の学習をする。21歳のときダライ・ラマ・ロサン・ジャンペル・ギャンツォより具足戒を授かり比丘となる。
25歳の時にラブラン・タシキル大僧院へ戻り三十歳の時第21代タシキル僧院座主となる。
大本山デプン・ゴマン学堂やその別格本山ラブラン・タシキル僧院では、ジャムヤンシェーパ一世、トゥクセー・ガワンタシー、グンタン・テンペードンメを「一切智者三父子」と呼び、学問上、信仰上の重要な祖師として数え上げている。

著 作

彼の顕教の著作は、古くからデプン・ゴマン学堂の教科書として採用され、一般向けの『水の教え』『木の教え』といった書物や密教の儀軌の説明など多岐に渡り、また修辞法や説明の巧妙さによりゲルク派全体で定評がある。