2013.01.14

石につまづいた地で起き上がる

チベットの僧侶の方たちが日本の人にいつも伝えているメッセージ
文:野村正次郎(弊会代表理事)

日本別院にはさまざまな悩みを抱えた方が相談に来られます。ゲン・ギャウのパルデン・ラモの骰子占いではそういった方々の個別の相談事をこれまで沢山聞いてきました。私も通訳として様々な悩みをチベットの僧侶の方たちに伝えてきましたし、僧侶の方たちのさまざまなアドバイスを悩んだ方たちに伝えてきました。

そういう人たちにヒントになることのひとつに、故ケンスル・リンポチェがよく法話会でおっしゃっていたことのひとつに「つまづく場所に起き上がる場所がある」ということがあります。

私たちが歩いてて石につまづいたら、その場所から起き上がらないといけないのと同じように、私たちが為した悪い行いや言動、思いのそのすべては他者に対してなしたものであるからこそ、私たちが為す善い行い、善い言動、善い思い、これらのすべては「他者に対して為されるもの」なのです。

チベットの高原には石がたくさん転がっている
チベットの高原には石がたくさん転がっている

たとえば「殺生」という行為は、他者の命を奪うことであり、「偸盗」という行為は、他者が自分に与えたものではない所有物を勝手に奪うこと、「邪淫」という行為は、他者が自分の妻である、夫であると思っている相手と性交渉をすることです。同様に「悪い言動」(語による不善業)は他者に対してひどいことを言ったり、騙したり、仲違いをさせたりする言葉を話したりすることであると経典で述べられています。そしてこれらのすべてが他者に対してなされたものです。

私たちが苦しみや悲しみを享受せざるを得ない原因は、そのような所謂「悪業」を行ったことの結果であると考えるのが因果応報の思想です。

仏教では自分が苦しみや悲しみを味わっていることは、決して誰か別の人のせいで自分が苦しみや悲しみを味わっているのではなく、「自業自得」と呼ばれるように自分が過去に為した様々な悪業がさまざまな条件が重なることによって自分の苦しみや悲しみとして結果が起こってくると考えます。その業は苦しみを生み出すという性質をもっているからこそ、他者に苦しみが起こるのと同様に自らにも苦しみが起こるわけです。

だからこそ自分が幸せになりたい、楽しく過ごしたいと思うのであれば、まず自らに向き合い、他者に対してよいことをすることです。よいことをするというのもまた他者に対してなされるものです。

我々が通常行っている悪いこと、つまり他者が不快であったり、苦しいと思うこと、それらの逆のこと、他者が幸せであると感じること、他者が楽しいと感じること、そういうことをするということが善業を積むということなのです。

私たちがつまづいたその場所で起き上がらないといけないように、自分が幸せになりたいと思うのであれば、他者を大切にし、他者を幸せにすること以外には方法がない、それがこのたとえの意味です。

さまざまな悩みや心配ごともっている人がいます。ただ悩みがない人、問題がない人というのはひとりもいません。ダライ・ラマ法王が東日本大震災の法要でも説かれたように、我々はその悩みや心配ごとを分析することが大切なのです。

私たち人間には大地を歩いてつまづいた時、その石をみつめるようにその問題を客観的に分析するような知的な能力が備わっています。そしてつまづいたその石にのある場所でまず起き上がり、また歩き始めなければなりません。ケンスル・リンポチェもよくおっしゃっていたように、つまづいた石を責めても仕方ないように、自分が何か他者との関わりのなかで苦しい状況にあるときに他者を責めたり恨んだり、自らが自暴自棄になっても仕方がないのです。

そもそも悩みや心配毎というものが無意味であることは、ダライ・ラマ法王もよく引用されるシャーンティデーヴァ『入菩薩行論』の次の一節によく表われています。

もしも改めることができるなら、憂うべきことなど一体何があるのだろうか。
もしも改めることができないのならば、憂うことで一体何の役に立つというのだろうか。

この一節は問題が起こっている時に、その現状が改善することができるのならば、その改善策をやるだけであり悩む必要はない、もしその起こった問題が改善することができなければ、悩む必要はないということを説いています。

まずは自分が何につまづいたのか、そして何故つまづいたのかを考え、その場所で起き上がり、今後はつまづかないように一歩一歩気を付けて歩くことができればそれで済むことが殆どだと思います。それを誰かのせいにしたり、悩む必要はまったくない、というのが大乗仏教で説かれている生き方なのです。

道端の石といえば、山本有三の『路傍の石』を想い起こす人も多くおられると思います。その山本有三が座右の銘としていたドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンの詩にこういうものがあります。

心に太陽を持て
嵐が吹こうと
吹雪が来ようと
天には黒雲
地には争いが絶えなかろうと
いつも心に太陽を持て

唇に歌を持て
軽く朗らかに
自分の務め
自分の暮らしに
よしや苦労が絶えなかろうと
いつも唇に歌を持て

苦しんでいる人
悩んでいる人には
こう励ましてやろう
勇気を失うな
唇に歌を持て
心に太陽を持て
(山本有三訳)

山本有三の『心に太陽を持て』(リンク)はこれまで多くの人を励ましてきた本です。悩みを抱えている人、人生に行き詰まった人はこういう本を読んだり、仏典をひもといたりすることからはじめるといいと思います。実は同じような問題を抱えている人は、たくさんいるわけで、人生の悩みや問題というのはそんなに大げさに考える必要はありません。

ブッダの説いた説法は60のメロディーを奏でる歌であると言われています。お経を唱えること、それもまた「唇に歌を持つ」ということとそんなに変わることではありません。「よい言葉を口にし、善い意味を心に抱く」というのは、僧俗をこえた大乗仏教の実践法「十種法行」に数えられるものであり、仏教の修行をしようとする人はまず、こういったことからはじめるのがいいのではないか、それが日本別院でチベットの僧侶の方たちが日本の人にいつも伝えているメッセージです。


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